初釜

この記事は、ボクがnoteを始めた頃に書いたものです。


亡き母の誕生日は1月1日(元旦)である。
母曰く「12月31日に生まれたのかもしれないけど、めんどくさくなってお医者さんが1月1日にしたのかもしれない」と・・・

大晦日近くになると、大掃除や年賀状書き・障子の張替えなどを一人でやって、晦日そばを作る。(父もボクも手伝うことはなかった。)

元旦には実家へボクと一緒に行く。

そして、1月2日になると「海老のシンジョ」とやらを作り、茶室をきれいに片付ける。
それは3日に行われる「初釜」の準備のためなのだ。


「初釜」を「wikipedia」で調べてみた。
・茶道で新年に初めて炉に釜をかけ茶事を行うこと
・「初釜の・はやくも立つる・音なりけり」


母もお弟子さんたちも「初釜」が好きだったように思う。

小さめな家でおこなわれる茶事なので、2箇所に分かれて1階では料理を作り、2階では「初釜」がおこなわれた。

母は「福引き」のための本を買って「福引き」の準備もした。

お弟子さんも料理はできるから、準備を手伝って
できあがったものを、二組に別れ2階で食していた。
そのときに、母が用意した「海老のシンジョ」がでるのだ。


みんな楽しそうだった。ボクも学生の頃は混ぜてもらったこともある。

抹茶を飲んで、その年初めての茶事もおこなわれる。
毎年恒例の一大イベント、それが「初釜」だった。

それは、母が認知症になるまでだったが・・・


母が認知症になり、お弟子さんの対応がかわってきた。

「月に一回集まって、お茶時をしましょう」
「先生には一万円上げますから」

お弟子さんたちの提案に対して母は首を縦に振らなかった。

「いままでと同じように、月謝をもらいたい」そう言ったのだ。

母も普通の人と同じ感覚になってしまっていた。
茶道講師であった頃の心は失われてしまっていたようだ。
「・・・悲しかった。」
「変わってしまったのだ。」

それを機に母とお弟子さんたちとの関係はこわれてしまった。

人って、そんなものなんだ。

母はその後、電話ばかりかけるようになる。
お茶の先輩に一日に20回以上も電話をかけたりした。
しかも短い間隔で、なんどもなんども…。

そう、その頃は認知症が少しずつ進んできていたと思われる。


ひどくなってきて、火事を出しそうになったこともあり、父が母のことをひとつひとつ取り上げてボクに言ってきたから
「ダブルでの心労」に耐えられず、老人ホーム入所を父とはなしあった。


老人ホーム入所の際、ホーム側のはからいでホームに飾る「いけばな」を母に生けさせてもらえた。すごくうれしかった。

ホームでの母は、入所者に「先生・先生」と話しかけていた。

お茶会と勘違いしていたと思われる。

「先生」と呼ばれて嫌な気持ちになる人は少なく、母は入所者のみんなとは上手くやっていたようだ。


数年後母は亡くなった。すごく苦しそうな格好で絶命していた。

危篤になって、二人で駆けつけたが、エレベーターで母が亡くなったことを告げられた。間に合わなかった。涙がぼろぼろ流れ落ちた。


話は「初釜」から、母の認知症におよんでしまった。


すみません。


男は母親が大好きだという。

ボクも例に漏れず、大好きだった。

障害を持って生まれて、ごめんね。


苦しめてしまった。


ごめんね。


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おまえ
ブルーライト浴びすぎてないですか? ファミコン1日1時間、パソコン1日好きなだけといいます。 そんなに書けないけど・・・また読んでください。

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