そしてヒロインになった?
見出し画像に使ったのは、母が「まだらボケ」になる直前にボクにくれた最後の手紙です。
母は、人に優しくて・負けず嫌いな性格で、しかも努力家・そして人の意見をよく聞くほうだったから、みんなに好かれていたようでした。
母は蕎麦屋の次女として生まれました。兄・姉・母・妹・弟の五人兄妹でした。
娘盛りの頃「蕎麦屋の娘で一生を終えるのは嫌だ」と近所に住む茶道の先生の門を叩きました。
そのしばらく前に戦争があり、片想いだった男性に死に別れ、その後「主婦の友」に当時の心境を綴った短歌を投稿しました。
「 若き日に 心寄せたる 人の名を 訃報の欄に 見たる真夏日 」
この句は「主婦の友」の短歌の欄で入選したそうです。
そのときのショックが抜けきれていなかったのか、仕事に夢中になっていたからか、それとも面食いだったからなのか結婚は遅く、子供を授かるのも遅く、そのうえ第一子は流産、第二子は破水、そのあとに生まれたボクは右手に障害を持って生まれるという、まるで呪われているかのような時期がありました。
茶道の先生は、二号さんで生活が苦しかったからか、母に「週に二回来なさい。」と言い、母はそれに従いました。
母は後日「月謝も二倍だったけど、おぼえるのも二倍早かったわよ。」などと、ボクにおどけて言っていたけど、二十二歳の早さにして弟子を持つことができたのは先生のおかげだったのでしょう。
母は茶道以外にも、料理教室に通ったり、能のうたいを学んだり、裁縫を習ったり、書道を学んだりしました。
でもそれは、取り方を変えてのなら、障害があるこどもの子育てを放棄したということであったといえるのでしょう。
ボクが中学一年のある日、学校で「なんで、そんな指をしているの?」と、いじられました。
それについて、ボクは母から何故なのかを聞いたことがなかったので、家に帰ってから母に聞くことにしました。
母に何故こんな指をしてるの?と聞いたら、母は茶室に来なさいと言いました。
ボクは、茶室に行き母を待ちました。
母は、少し遅れて茶室に現れました。
数秒の沈黙の後、母は突然泣き出してしまいました。
ボクは、それから母に右手の指のことを相談することができなくなってしまいました。
クラスでも、同時期に軽いいじめをうけていたボクは、それ以来誰にも右手の指の障害のことを相談することができず、ひとりで苦しんできました。
あるとき、近隣に住む一つ年上の少し頭がおかしい男とトラブルになりました。その後そいつは、何かにつけボクに文句をいい続けましたが、ある日そいつの娘(当時、その娘は小学三年生くらいだった)から「バケモノ」と、罵られました。
でもボクは誰にもそのことを相談できず、ひとり苦しんできました。
もし、母があのとき泣き出さなかったなら、ボクもいろんなことを母に相談できたのでしょうが、あのことがあったあと、ボクは母に対しても他人行儀な対応しかできなくなってしまったのです。
ボクは高校卒業後、東京で社会人デビューしましたが、それはボクが好き好んだことではなく、就職先が東京にしかなかったからなのです。
その東京でも人からいろいろといじられ、朝の通勤ラッシュ(寮から庁舎までは地下鉄・バス・電車で一時間半もかかった)にも慣れることができず、公務員としての給与も安かったし仕送りもしてくれなかったから地元の友人にも母にも電話することもままならずノイローゼ気味になって退庁して浜松へと帰郷しました。
浜松に帰ってきてしばらくしても再就職しようとしないボクをみかねた父が神経科へとつれていき、そこでボクは精神分裂病と診断されてしまいました。
これは、あとになってわかったことなのてすが父からの遺伝だったのです。
これもあとになってわかったことなのですけど、神経科の院長はボクに限界量ギリギリの量の薬を処方していたため、ボクは首が斜傾になっていた時期もありました。
頭かボ~ツとしてしまっていた時期が長く、その間は仕事に就いても、コピーひとつまともにとれないほどまったく役に立てず、時間だけが流れていきました。
その後、すこしづつ統合失調症の症状は回復していき、短期間ながらも仕事をこなせるようになってきました。
そんななかで、ある晩ボクが二階にあるボクの部屋から降りてきたら、母が真っ裸で床に仰向けになっていたのです。
バスタオルが身体にかけられていましたが、意識はなく呼び起こしても、起きることはありませんでした。
急いで救急車を呼びましたが、病院に運ばれた後の母は「まだらボケ」になってしまいました。
その状態から軽度の認知症になり、それでも家事をこなそうとしてくれたのですが、火事を出す寸前の行為をしてしまうことをしたり、知人に三十分の間に二十回も電話を掛けたりしたから、ボクは父と相談して、母を特別養護老人ホームに入ってもらうことにしました。
老人ホームでの母は、入所している人に「先生、先生」と呼び掛けていました。
お茶会の会場に自分がいる、と勘違いしていたようでした。
数年、特別養護老人ホームにお世話になったのち、母は誤飲性肺炎がもとで亡くなりました。
母が嫁入りした我が家の食事は質素なもので、朝食は「きしめん二杯」昼食は「パン一枚」が当たり前だったらしく、母いわく『戦時中より、栄養が摂れなかった』ということでした。
その上、母が妊娠しても祖母は家事を一切手伝うこともなく、一人女だった母はどんどん体重が減っていったとのことでした。
冒頭で書いたように、ボクが産まれる前に、流産・破水で二人を失って、最後に産まれたボクの右手の指に障害があったことを、母は「妊娠中なのに栄養を摂ることも許されず、家事も手伝ってもらえなかっなことが原因だ」と決めつけ、おじいさんとおばあさんに対して恨みを持つに至ったようでした。
おじいさんが、お金を使わないのを物語るはなしを母から聞かされたことがあります。
ある晩、お風呂からあがってきたおじいさんは母にこう言ったらしいてす。
今日は、お風呂のお湯を風呂桶三杯しか使わなかったぞ!
これは、おじいさんが若い頃、故郷である岐阜から大阪に出て商売を始め、機械商として成功したけと、父の兄が財産を芸者遊びで、ほとんど使い果たしてしまったから、お金を使わなくなったのではないか?とボクは推測しています。
ボクの右手の指に障害がでたのは、母が高齢出産(ボクは母が三十六歳の時に産まれた)したからだと思われますが、母は不幸続きだったから誰かを恨むことで、生きる気力を取り戻したかったのではないかと、ボクは考えています。
ボクも、そんな感じなところがあるけど、おかあさんもツイてなかったんだね!
でも、もういまごろは天国でおじいさんたちと和解しているよね…。
おかあさん
安らかに眠ってくださいね
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