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母がまだ若い頃に第二次世界大戦が起きたから、食べ物には苦労させられてきたと聞かされました。

田舎へ食糧を取りに行っても、列車を降りる際に軍人さんに見つかって取られてしまうことがよくあったらしいのですが、家の母もそんな体験をしたそうです。


浜松も航空自衛隊があったから、狙われたこともあったらしく船からの艦砲射撃が母が避難した防空壕でも大きな音と振動が伝わっていたと聞かされました。

そして母は自分が好きだった(片想い)人を戦争で失くしたということも話してくれました。

その時のことを詠んだ短歌が「若き日に 心寄せたる 人の名を 訃報の欄に 見たる真夏日」という句で、主婦の友に入選したと言っていました。


母が苦労したのは、戦時中だけではなく結婚した後も、食事はまともに与えられなかったと言いました。

我が家のおじいさんは、会社を立ち上げた人だったからお金にはシビアで我が家の朝食はパン一枚、昼食はきしめん二杯しか食べられなかったらしく、一日中動き回っていた母は体重が激減したと振り返りました。

戦時中より、貧しい食事しか与えられなかったから、破水と子宮外妊娠で子供を授かれなかったと思い込んでいるところに、生まれたボクの右手指に障害があったことで、おじいさんたちを恨んで暮らすようになりました。

母は自分が食で苦労したから、ボクには同じ想いをさせたくないと、たくさん食べろとよく言っていました。

お茶会に行っても必ず余ったお弁当をボクのために持って来てくれたし、余りがないときには母はお弁当を半分だけ食べて、残りをボクのために持ち帰ってくれました。


最近、芸能界で話題の「さわやかのハンバーグ」ですが、母はそのハンバーグと同じくらいの味のハンバーグを作っていたから、ボクは知り合いに「さわやか」に連れていってもらった時も、別に格段美味しいとは思いませんでしたよ。

母は蕎麦屋の娘に生まれ、料理教室にも通っていたから、料理は得意だったのでしょう。

そんな母でも、手抜き料理を作る時がありました。

毎週木曜日になると、茶道のお弟子さんたちが家を訪れ母がお稽古をつけるのですが、その日の夕食は決まって「親子丼と、きゅうりのうりもみ」でした。

しかも何故か、美味しくないのです。

料理には愛情が混もっているなどとよく聞きますが、木曜日の母は茶道のことで頭がいっぱいだったから、まともに料理を作れなかったのかもしれません。


そんな母も数年前に他界しました。

あの世でおじいさんたちとうまくやっていればよいのですが…。


母が教えてくれたことを最後に書いて終わりにします。


「料理は中高に盛ると美味しそうに見える」

「料理は目でも食べるから盛り付けは重要」


ちなみに華道でも、中を高く生ける方法もあるそうですよ。


おしまい

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