百万石の古都金沢、名物の笹の葉寿司を食す
笹寿司をいただいた。
押し寿司には眼がない。
お米と魚介類、その他の材料をいれて押してつくる寿司がとても好きだ。
さらに、かぐわしくも爽やかな香りのする葉が巻かれているのであれば、もう言うことなし。
笹寿司は金沢と新潟、長野の郷土料理だと言われている。
金沢だけが、笹の葉でお米と魚介類をつつみ押す。
しっかりと笹の葉でつつまれたお米と魚介類は空気にふれることがない。
その結果、お米も魚介類もパサパサに乾燥していない。
さらに殺菌作用があるといわれている笹の葉でつつんでいるのでお米と魚介類が痛みにくい。
むかしの日本人の知恵を感じられる。
殺菌作用のある笹の葉は、新雪のように清らかで爽やかな香り。
その香りは清雅にして典雅。
さらに、魚介類の水分をぬいてくれる。
水分をぬかれた魚介類には臭みのひとかけらも感じられない。
さらに、蠱惑的ともいえる艶のある濃密な口あたりになる。
包み紙をあける。
笹の葉の清く麗らかな香りにつつまれる。
川底の石を見ることのできる清流の川べりの空気、もしくは夕立のあとにおとずれる静寂ともいえるすがしさを感じられる。
三種類のネタがすきまなくつめこまれている。
どのネタから食べてもよいだろう、笹の葉寿司は。
金沢という土地、食べ物、お酒をたいそう気にいり、ずばり『 金沢 』という長編小説を書いた吉田健一。
吉田健一が、随筆『 金沢 』のなかでも食べたと書いていた鯛からいただこう。
ちなみに、吉田健一は鯛よりも鰯の押し寿司がおいしいと書いていたのは秘密だ。
笹の葉寿司は、2枚の笹の葉でつつまれている。
シールをはがす。笹の葉をひろげる。寿司の具がうえになるようにつつまれている。
そのまま食べられる。
不器用さんでもお米や魚介類をこぼさずに、お上品に雅に食べられるわけだ。
定規ではかったように正方形にととのえられた笹の葉寿司。
金沢の職人芸にうっとりとさせられる。
笹の葉に包まれていた寿司は、清潔な手でもお箸でもつかめる。
笹の葉ごと持ちあげ、そのまま寿司を食べられる。
けれども、笹の葉のハシには見えないギザギザがある。唇を切る可能性もある。
ご注意を。
つやつやとした酢飯。ほんのりとした甘みがある。
その酢飯のうえに鯛がのせられ、すこしめりこんでいる。
針のように細くきられた昆布。
山椒の葉だろうか。新雪にめぶく新緑のように眼をたのしませてくれる。
鯛と酢飯が一体化している。
鯛の身はつややか。
よけいな水分がぬかれ、まるで昆布などでしめたように典雅な口当たり。
やわらかに甘く、おだやかな口当たり。
鯛の皮がついている。鯛の皮を食べられるのか、食べられるんです。
皮と身のすきまにある秘められた風味を堪能できる。
しっかりと押しかためられた酢飯は意外や意外。
口の中にいれると、玉手箱のヒモをほどくようにほぐれる。
酢と甘味のバランスが上塩梅。
少女から大人に成長しつつある若々しい可憐なあじわい。
かなしい。かなしいのや。
若狭のサバと女子は、とつぶやいたのは越前出身の作家水上勉。
若狭でとれたサバを京都へはこんだ街道をさしてサバ街道という。
若狭でサバをつけたのち女子が京都へとサバをはこぶ。
京都につくころにいい塩梅にサバがつかることからサバを読むという言葉ができたという説もある。
そして、サバをはこんだ女子がその街道で男に襲われたという記録がぎょうさんでてくると続く。
だから、若狭のサバと女子はかなしいのや。
いまはゆたかな時代になった。
自宅に笹の葉につつまれた鯖がとどく。
ゆたかさの前にあった、かなしい時代に思いをめぐらしながら笹の葉をあける。
鯖が輝いている。
朧月夜のように輝いているのは、上質な和紙のようなうすい昆布に包まれているからに相違ない。
鯖の身には湿り潤った旨味がある。たまに鯖の油がしつこすぎると感じることがある。
笹の葉につつまれた鯖の身は、旨味だけを鮮やかに抽出しきっている。
キャビアに硬貨をのせたように、鯖に歯をのせると静かに沈みこんでいく。
鯖の身からは濃密で豊饒、肥えた透明な旨味がしみでてくる。
その鯖の旨味はこってりとしており、酢飯との相性がよいのは言うまでもない。
そして、笹の葉のひとなでのおかげで鯖の後味はさっぱりとしている。
もちろん、わるくなった青魚にある鼻をそむけたくなるような匂いはない。
最後の鮭。
すこし話はそれる。
谷崎潤一郎が書いた『 陰翳礼讃 』(いんえいらいさん)という随筆がある。
そのなかで食魔とよばれた谷崎潤一郎は、柿の葉寿司であれば毎日毎日食べてもあきることがないと書いてある。
実際に毎日毎日柿の葉寿司を食べていたそうだ。
笹の葉とおなじで柿の葉にも殺菌効果があると言われており、北陸でも柿の葉寿司は作られている。
『 陰翳礼讃 』には、柿の葉寿司の作り方も書かれているので紹介させてもらう。
新巻鮭をうすく切り、お米を水と日本酒でたく、そして、極力を水をつけずに塩をつけにぎったお米のうえに荒巻鮭をのせ柿の葉でつつむ。
ながながとなぜ、柿の葉寿司の話をしたのか。
それは、いま我々が食べている生の鮭を食魔とよばれた谷崎潤一郎は口にしてない可能性があると言いたかったのである。
日本で生の鮭が食べられるのは戦後からたちなおり、高度に成長し海外の鮭が身近なものになってから鮭は生で食べられるようになった。
つまり、我々がいま食べている鮭・サーモンは、かの食魔谷崎潤一郎すらも食べたことがない美味なのである。
やわらかいものが好きだった谷崎潤一郎。
荒巻鮭よりも今の鮭をこのんだかもしれない。
こじんまりとした檸檬が鮭のうえにのせられている。
鮭の身に檸檬がくいこむ。鮭の身は酢飯にくいこむ。
笹の葉の爽やかさをもってしても鮭の脂をおさえるには檸檬の力が必要なのだろうか。
あまたの人をとりこにしてきた紅玉のように輝く鮭。
瀟洒な緑色のかんざしをさしている。
過去の文豪たちが食べたことのない鮭を口にはこぶ。
鮭の身は歯に力をいれずとも、はんなりと口中にひろがる、ほどける、とける。
濃縮された鮭の凛然とした旨味が口中いっぱいにみちみちる。
檸檬の酸味は酸っぱすぎない。それでいてチクリとした苦い酸味がきいている。
檸檬と笹の爽やかさは、鮭をさっぱりとした口あたりにするだけでなく、鮭の身に秘められた旨味までをもひきだしている。
大海を制覇してきた滋味ある脂と白米が口中で混ざりあい天然と人口が衝突する。
充実した忘れがたい新しい天体が口中にうまれる。
金沢の笹の葉寿司。
たいへんおいしゅうございました。
金沢を味わいつくしたければ、一年ないし、半年は金沢に住まなければならないと聞いたことがある。
ゆたかな魚介類だけでなく、ゴチなどの川魚、鴨などの鳥、ゆたかな山菜や野菜、豆腐や漬物などの加工食品などなど季節ごとにしか味わえない名物が数おおくある、金沢には。
やはり1年から半年は金沢に住み百万石の味を堪能したい。
百万石の味のひとつである笹の葉寿司はご自宅から注文できる。
そして、お家に配達してくれる。
笹の葉寿司を食べれば百万石のうち一石ぐらいは制覇してやったりという気分にひたれる。