雑司ヶ谷にあるお墓は怖くない
友達の学がカナダから帰ってきて、東京で遊んでいた。あちこち歩き回っていた私たちは、池袋から逸れ、なぜか雑司ヶ谷のお墓に足を踏み入れた。雲一つない秋晴れで、午後の陽光が眠気を誘うような日に来るようなところではないと感じつつ、次の目的地に向かうためには通るしかなかったのだ。
雑司ヶ谷にあるその名も「雑司ヶ谷霊園」は、東京ドーム一個分とか言いたくなるような広大な霊園で、碁盤の目のようにお墓が整然と並んでいる。そして所々に背の高い木が生い茂っていて、池袋に林立するビルと相まって東京らしい風景を作っていた。
私はお墓に対して怖いというイメージを持っている。昔見たホラー映画やバラエティ番組の影響で、心霊写真や幽霊みたいなものが苦手になってしまった自分にとって、お墓には”白い服を着た長い髪の女性”がいるみたいなイメージがこびりついているのだ。
ただ、時間帯が昼過ぎということもあり、雑司ヶ谷霊園にいてもそのような怖いイメージが連想されることはなかった。反対に、綺麗に道が整備され、少しずつ紅葉する木々などを見ていたら、清々しい気分さえする。そして、この日は休日だったので至るところにお墓を訪れる人がいて、磨き上げられた墓石や雑草のない墓たちは、その静謐さに見惚れてしまうほど綺麗だった。
「なあ〜学ちゃん。お墓って良くない?」
「ん?考えたこともなかった。お墓といえば最近な〜」
学との話は連想が連想を呼んで流れていった。
ただ私は、話については上の空で、海外から帰ってきて東京が地元でもない学と、東京出身でもなかなかこない雑司ヶ谷霊園を歩いているのが、なんだか不思議だなと考えていた。空の青さを見て、意味わからないタイミングでこの日を思い出したりするのだろうとか考えていたら、案の定、学の話を聞き直さなくてはいけなくなったのだった。
学と一緒に雑司ヶ谷霊園を訪れてから3週間ほど経って、お墓を訪れたことが不謹慎なことだったのではないかと、じわじわと心の負担に感じ始めてしまった。ただ、あの経験は私にとって貴重かつ楽しい思い出には変わりなく、私は何にそこまでグッときていたのだろうと、疑問がぐるぐると回った。
洗面所で音楽を聴きながら顔を洗っていたら、降りてくるように気付いた。「多くの人が見返りのない愛を注いでいるのが見れたからではないか」と。
私が雑司ヶ谷霊園を訪れたとき、バケツとブラシ、花を持った中年の夫婦が車から降りてきた。その2人は何やら忙しく話しながらも、自分たちのお墓と思われる場所に入っていった。きっと、お墓を綺麗にして帰るのだろう。その2人の忙しそうな、ばたばたとしている様子から、「たとえ忙しかったとしても時間を作って故人を偲んでいるのだな」と思って、えも言われぬ愛を感じたのである。
思い返してみると、雑草が生い茂る墓もあったけれど、ほとんどが綺麗に整えられていた。そしてお墓にもいろいろなバリエーションがあり、学にも「お墓って家みたいでかっこいいよな〜」とか言っていた気がする。和風、洋風、大きい、小さい、参道みたいなものがある、木が植えてあるなどなど、実に多種多様なのだ。(墓の営業みたいになってしまった)
お墓に少し居ただけでこれだけの想像が広がるのだから、きっと長時間滞在したら涙ぐんでくるだろうとさえ思う。人々の想いが交錯し、愛に溢れた場所なのだと感じ、お墓に対するイメージがガラリと変わった。これまで怖いとかざっくりとした印象ばかり口にしてすみませんでした。
都内の霊園を回るのが趣味になってしまいそうだ。……でも、亡くなった祖父母の墓に行くのが先決ですね。待っててね。
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