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15.甲府市立動物園       (現・甲府市遊亀公園附属動物園)

 大正8年(1919)、市民が持ち寄った小鳥を入れる鳥舎があるだけのスタートであった。その後、ニホンザル、クジャク、オシドリを増やし、大正14年(1925)に、皇室から送られた南アフリカ産のメスのライオンが来て、動物園として充実していった。(※1)

 甲府市史・昭和39年(1964)
 「丹頂鶴をはじめ、南アフリカ産のライオンなどの猛獣をふくめた禽獣を飼育したが、太平洋戦争の激化に伴ってこれを処分」(※2)と書かれている。
 甲府市史通史編第3巻・平成2年(1990)には、処分はなかったことになっている。
 この間に新たな証言が出てきた。小林君男氏である。
 当時の園長・小林承吉氏の息子で、実際に動物園の嘱託獣医師を務めていた。親子で動物園に勤めていた。
 小林君男氏は、処分はなかったと断言している。
 当時、市民の間では、動物園の動物は戦争が厳しくなって、荒川に連れて行って全部殺したと言われていた。君男氏によると、甲府に来ていたサーカス団のライオンが荒川の河原で射殺されたのを混同して伝えられたと思われた。 
 確かに、動物園の猛獣をわざわざ川の河原に連れて行って射殺するような危ない行動を起こすことは現実性はないと思わざるを得ません。
(※3)
 当時、憲兵隊が動物園にやってきて「射殺せよ」と命令をしたのですが、園長が「オリがあるから大丈夫だ」と言って安全を保証し、処分は免れました。
 これで引き下がるような軍ではないが、それ以上の要請はありませんでした。
 君男氏によると、承吉氏は甲府連隊、憲兵隊の軍馬の獣医師でした。治療の代わりに軍隊の残飯などをもらい受けて動物たちに与えていた。(※4)
  「軍隊では、馬も兵器である。兵器である馬が病気したり、けがをさせたりすれば、その将兵が罰せられた。そこで軍は治療を受けたことを記載せず、その代わりに連隊に支給される食料品を治療代として園内の動物たちに与えた。」(※5)
 推測ではあるが、治療の記載は、今後の治療経過を見ることもあるので、小林園長のところには持っている。それが、将兵たちにとって弱みを握られているようなものであった。軍が強硬に処分を推し進めた時に、園長の動向が、将校たちの出世に影響することを考えると、見て見ぬふりを通したと思える。
 しかし、新たな資料が出た。平成29年(2017)、北京市にある中国国家図書館で、戦争末期に上海で発行されていた日本語雑誌が発見された。戦時下の上海で日本軍の支援で創設された大陸新報社(新聞社)の「大陸」という雑誌である。「山椒魚」「黒い雨」で有名な作家、井伏鱒二が、昭和19年12月号に「饒舌老人と語る」掲載した。
 『あれは、もうここにはゐません。肉食動物ですから、時局に即応して、他の猛獣といっしょに整理されました。』(※6)
 動物園の受付嬢が話した。この作品は、小説よりもエッセイといった雰囲気で、甲府を舞台にしたものである。井伏は、昭和19年7月に甲府に疎開していた。犬と狼をかき合わせた混血犬を見たくて訪れたが、処分されて見れなかったとなっている。どちらが本当のことであるかは、今となってはわからないが、井伏の作品が創作であれば、処分はなかったことになる。

※1 山梨日日新聞 平成11年(1999)7月5日付 やまなし20世紀の群像19 参考
※2 甲府市史・昭和39年(1964)1857頁 5-9行目 引用
※3 終戦特集「64年目の証言」テレビ山梨ニュースの星 戦争から動物を守る 甲府市遊亀公園付属動物園 2009年 参考
※4 甲府市史通史編第三巻・平成2年(1990)792-793頁 参考
※5 甲府市史通史編第三巻・平成2年(1990)792頁17行目-793頁1行目 引用
※6 「早稲田文学2018年初夏号」(第十次二〇号 通巻第1028号)早稲田文学会 97頁17・18行 引用

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