
4.部隊のマスコット「ハチ」 ―成岡さんとヒョウ―
昭和34年(1959)、ペギー葉山さんが歌って大ヒットした曲、「南国土佐を後にして」という流行歌があった。この歌は、日中戦争が始まった頃に中国へ派兵された陸軍・亀川歩兵二三六連隊(鯨部隊)内で自然発生的に生まれ、歌われていたものであった。(※部隊で歌われた詞の内容は一部違っていた)
昭和14年10月に成岡正久さんが、この鯨部隊に配属されたのである。配属地は、中華民国湖北省要陽新県白砂舗村で(現在・中華人民共和国湖北省黄石市)小隊長として、警備をしていた。(※1)
昭和16年2月27日、午後4時頃、成岡曹長と秋田伍長の2人は、牛頭山に向かっていた。牛頭山は、この村の東方4キロメートルのところにある標高100mの山であった。
成岡さんは山の麓を眺めていた時、燃え上がる野火を発見した。その火は山麓一帯に点々と広がっていたのである。
「敵の狼煙!」
と思った成岡さんは、すぐに分隊に電話してが、異常がないとの返答であった。どうして、野火を焚いたのかその夜は不明のままであった。
翌朝、部下を引き連れて、牛頭山へふたたび行って、高台の監視所のところにで眺めていた。小道のいたるところに藁の灰が盛り上がっていて、まだ火がくすぶっていた。
山頂から、若い技師が血相変えて走り降りてきた。成岡さんが声をかけても目もくれず、テント(鉱山開発技師が使用していた)に入っていった。
ただことではないと、若い技師が落ち着いたとことで問いただした。
その技師は、ボーリング作業の準備をしている時に、背後に妙な気配を感じてみて見ると大きなヒョウがいて、鋭い目で睨みつけていたと言う。そのまま一目散で山を下ったのである。
そこへ、牛頭山で働いている村人が帰って来て、ヒョウのことを尋ねた。
確かにヒョウが4頭いる、親のヒョウは2・7メートルもある大きなヒョウで、毎夜、山麓の部落に出没して、家畜を食い荒らすどころか人まで襲われる。なんとか、ヒョウを退治してほしいと頼まれたのである。成岡さんは、困っている住民を助けようと思い、ヒョウ退治をすることに決めた。(※2)
部隊から、成岡さんを筆頭に射撃の名手3名、秋田伍長、長木・川村上等兵の4名で牛頭山に向かった。途中、牛の白骨化したものや人間の衣類と思われるものが散乱していて、緊張しながらの山道であった。山頂についていろいろと探しましたが見つからず、下って7合目の付近、岩伝えの道が途切れて、眼下の大岩に飛び移った時、
「グワアーーー」
という落雷のような凄い鳴き声がした。その大岩がヒョウの住処だったのである。
その大岩を注意深く観測すると、幅1メートル、奥行き5メートルの岩の割れ目あり、ついにヒョウを見つけた。
作戦としては、焼き討ちにして、ヒョウが出て来たところで一斉射撃しようということになった。
最初、2回目と入口に火を投げ入れて、待ち構えていたが、出てこない。
ただ、2頭の子ヒョウが姿を現したのですが、成岡さんが生け捕りを考えている最中に奥へと逃げてしまった。
3回目で、ガソリンを中までかけて火を投げ入れた。子ヒョウの悲鳴だけがあって、親はどこかへと逃去のである。
次に、小ヒョウを生け捕って、それをおとりにして行ったが、結局親は現れなかった。2頭の子ヒョウは、首にやけどしているオスのヒョウを成岡さんがもって帰り、メスのヒョウは華中鉱業の技術者たちに預けた。
部隊では、子ヒョウを捕らえたと言う情報が入って、戻る成岡さんを隊員たちは、待ち遠しく待っていた。部隊に戻った成岡さんを、部屋まで隊員たちはついて、可愛い子ヒョウの為に隊員たちは世話をやいていました。
ただ、問題があり、ミルクを手配したのですが一向に飲まない。腹を空かして泣き叫ぶヒョウ、成岡さんはほとほと困りました。このままでは、死んでしまう。
何気なく訪れた炊事場で、朝食用の豚肉を刻んでいたのを少しもらい、藁にもすがるおもいで、子ヒョウに食べさせた。歯がないのに勢いよく食べ、ホッとした。
それから、一日3回豚肉をあげて、成岡さんが留守の時は他の隊員が遊んであげました。1週間後には目を開け、1ヶ月後には、まるまると太って中隊のマスコットに収まったのである。
ある日曜日に、小ヒョウを可愛がっている隊員たちで名前をつけようと、いろいろな愛称が出たが、第八中隊ということで、尾崎曹長が提案し「ハチ」と言う名前になった。(※3)
ハチが中隊に来てから、50日目に、全戦部隊将兵慰問のため、江口隆哉氏と宮操子女子が引率する十数名の舞踊団一行が訪れた。
仮設舞台で、艶やかな舞踊演技を博してくれたが、連日の慰問興行が祟ったのか、リーダーの宮先生が高熱を発し寝込んでしまったのである。次のところへは無期限に延期となってしまった。成岡さんは、少しでも容態が良くなればと、ハチをつれて宮先生のところへ連れて行った。最初はみなさん恐ろしくて尻込みをついていたが、次第になれてハチと一緒に歓声をあげながら遊んでいた。団員の希望もあり、そのままお貸しした。
一週間後に、団員は次の目的地へと出発ため、宮先生に抱かれたハチは、成岡さんの姿をみて、パッと私に飛びついてきた。そして名残惜しそうに一行は次の目的地へ旅立ったのである。(※4)
ハチは軍隊生活に慣れて、隊員たちと愉快な日常を過ごしていた。炊事場にあさりに来る野犬や猫はハチの一撃をくらい、それ以後被害がなくなった。隊員たちは「衛兵」とハチのことを言ってますます大事にしてくれた。
「危険であるから、隊内での飼育は禁ずる」(※5)
連隊長からの再三にわたる注意であった。
その連隊長が、第八中隊に内務巡視にきた。一同参列するなか、成岡さんの隣で坐っているいるハチ、緊張が漂っていた。連隊長の姿を見たハチは、右肩に吊られた〝ずのう〟に絡みつき、じゃれるのであった。
「成岡、お前はまだ処分していなかったのか」
足元でじゃれるハチ
「成岡、大丈夫だろうな」
「はいっ、絶対大丈夫であります」と答える
「隊員達がどんなことをしても、絶対大丈夫ということが、どうしていえるのか」
と重ねて質問された。
成岡さんは、上半身裸になって、ハチを担ぎ上げて中庭の芝生で、ハチを倒して枕にしたり、ゲンコツを口に入れたり、レスリングをしたりと息の詰まる実演をしたのである。
それを見た連隊長が
「もうよい、分った 分った」
といって飼育の許可がでたのであった。(※6)
ある日、うちの錦号(軍用犬)と勝負をさせてはと、その軍用犬担当の亀井軍曹が話を持ちかけた。ハチより、錦号の方が強いと豪語したのである。あまり気乗りしない成岡さんだったが、錦号はどんなことがあっても負けないと強気であった。
「どちらが負けても、またどんなことがあっても、一切泣きごとや、苦情は言わないことだぞ。それで良いのか、亀井軍曹」(※7)
念をおしたのである。
運命の決闘の日、ハチと錦号、亀井軍曹が「かかれ!」と錦号に、ハチは素早く飛びかかり、前爪の強烈な一撃を右顔面に打ち込んだ。観戦者は息をのんだ、錦号は無言のまま倒れた。
あっけない一戦であった。その後、亀井軍曹は処罰され、大隊命令で第八中隊周辺には、軍用犬は近づけないように命令が出たのである。(※8)
そんなハチとの生活は終わりを迎えることになる。
昭和17年4月末、ある作戦により、もうハチを連れて行くことができなくなったのである。成岡さんは、悩み名案が浮かんでこなかった。郷里の高知市柳原動物園にこの旨を詳細に伝え引き取ってもらえないかとお願いしたが断られた。天王寺動物園へも紹介したが、オスメス2頭飼育中ということでダメであった。
前に慰問に来ていただいた宮操子先生経由で上野動物園へ紹介してもらった。なかなか返事がこなかったが、出動2日前にやっと返事がきて、
「是非送って戴きたい、そして大いに歓迎する」
と言う返事がきて、成岡さんは跳び上がらんばかりに喜んだ。
上野動物園に送られることにはなったが「ハチ」では安っぽすぎるとの思いから、隊員たちが頭を捻って、当時の国是であった「八紘一宇」から「八紘」という名前になった。
残りの2日間をハチと一緒に過ごし、特に美味そうな肉をハチに与えた。そして、発送方法を残留の隊員に依頼して、後ろ髪を引かれながら出動したのである。
これが、生きているハチと成岡さんとの永遠の別れとなった。
そして、上野動物園に無事着いた。成岡さんも、6月2日付けの新聞見出しに、無事到着の文字をみて無上の喜びであった。(※9)
一方、ハチは、上野動物園へ到着後、檻に移そうとしたがなかなか入ろうとはしなかった。係員も困ってしまった。そこへ一人の兵隊が来て
「私にやらせてみて下さい」(※10)
と、白頭山でハチを捉えた時、一緒にいた吉村兵長であった。航空隊に転属となり、東京にいたのであった。係員と観客が見守る中、ハチと一緒に入る吉村兵長、まわりがこの光景を見て感激をした。
成岡さんは、作戦終了後、昭和18年8月26日に一ヶ月の休暇をもらった。故郷の高知を帰る前に、ハチの姿を見たいと上野動物園へ電報を打った。
「ハチゲンザ イナリヤ ナルオカ」
首を長くして待った返信が
「八ガ ツ十九ヒド クサツス」
毒殺とは、安心に過ごせると思って東京へ送った。このようになるなら、生まれ故郷の白砂舗近くの山中へ離してやればと悔やまれる思いであった。(※11)
成岡さんは、満洲国奉天省蘇家屯で終戦を迎えた。帰国は、昭和21年11月23日に故郷高知へ帰った。生業について、戦後の混乱が収まりった頃に、ハチの愛情もあり、造皮でもいいので手に入らないかと、生きている間でもハチの冥福を祈り続けたい思いであった。その後、はく製として上野動物園にあることを知り、上野動物園の方に交渉をした。
しかし、当時の上野動物園でも猛獣たちを処分して、かろうじてはく製で動物を見てもらうものなので、動物園側としても困ってしまったが、成岡さんの愛情をもって育てたことも知っていたこともあり、古賀忠道園長は、廃品の払い下げという形で渡すことを決めたのである。
昭和24年の春、はく製にはなったものの、ハチと再開し、成岡さんは涙を流した。
成岡さんが経営する喫茶店に展示して、ハチを囲んで仲間たちと思い出を話すのであった。
昭和56年に高知市子ども科学館へ寄贈、市民にとって学ぶべき財産となった。
その後、成岡さんは、ハチの取材ということでテレビや新聞のインタビューにも答えていた。
平成6年
成岡さん逝去、84歳。(※12)
彼は生前、このような言葉を残した。
「私とハチが、戦争のおかげで逢う事が出来、また戦争のために別れねばならなかったということも、悲しい宿命というべきなのかも知れません。」(※13)
※1 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 21-22頁 参考
※2 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 23-37頁 参考
※3 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 38-58頁 参考
※4 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 38-58頁 参考
※5 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 94頁9行 引用
※6 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 98–99頁 参考
※7 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 121頁12行-13行 引用
※8 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 125頁 参照
※9 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 182-189頁 参考
※10 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 189頁11行 引用
※11 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 193-194頁 参考
※12 「平和教材 ハチからのメッセージ」高知市子ども科学図書館 25–26頁 参考
※13 「豹と兵隊–野生に勝った愛情の奇跡-」成岡正久著 194頁8-9行 引用