
3.遥か、エチオピアから来た 「アリーとカテリーナ」(上野動物園)
昭和6年12月1日、上野動物園に皇室から下賜されたライオン夫婦が来園した。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ陛下より、日本の皇室に贈られた、オスの「アリー」とメスの「カテリーナ」である。
エチオピアは古くからの君主制で、第一次世界大戦後、アフリカ大陸で唯一独立を守った国でもある。しかし、植民地として狙っていたイタリアは、ムッソリーニ政権になりますます虎視眈々と狙っていた。緊迫の最中、昭和5年、38歳で即位したエチオピア皇帝は、同じように古い歴史を持つ君主制の国で、欧米列強による植民地化の進んでいたアジア、その一角で、明治維新、日露戦争と強大なロシアの圧力を跳ね返した日本との関係に大いに希望を持っていた。(※1)

ライオン夫婦が国を出る時に、エチオピアの国内から各地の大名たちが国境まで、この2頭を送り、更に国境より海岸までは儀仗兵が護送し、その期待に一身に背負う様な扱いを受けたのである。(※2)
オスのアリーは、立髪が立派で風貌も優れて性格は温厚であった。名前を呼べば近づいて、その体を擦ってやると喜んだという。メスのカテリーナは、若々しく人にジャレ付くような一面があった。
昭和7年8月25日、午前8時半に古賀忠道氏は、園内を巡回していた。カテリーナの室の前、飼育員通路にライオンの子どもが落ちていたのを発見した。そして、もう一頭も産室にいたのを保護をした。通常、母ライオンは人が通っても平気だが、子供を産むと態度が急変し、人を威嚇するものだ、それが一向になったのである。
この2頭の子どもを産室に戻して、その日はカテリーナに任した。
翌日も、カテリーナは一向に子供を育てようとはしないために、産室から子どもを取り出して、飼育員で育てることになったのである。古賀は、牛乳を水で半分に割って、脱脂綿について子どもに与え、舐めるが多量には飲まなかった。そして直ぐに、犬を母親がわりにして育てようということになり、鳥獣商の上田金三郎氏に、子供を産んだ直後の犬を探すように頼んだ。
その後いろいろと工夫はするが上手くいかず、脱糞しないと思うと、下痢になったりと古賀を悩ました。
9月2日にメスの土佐ブルテリアを連れてきたが、子どものライオンを拒み続けたために諦めた。
翌日、次の母犬のつなぎとして、1ヶ月前に出産した山羊のメスと連れて、赤ちゃんライオンにお乳を飲ました。そうこうしていると、午後6時30分にブルドックを連れてきた。
名前を「茶目」
茶目は、スーパー乳母であった。何度も他の犬の乳母もやり、猫等もみても少しも騒ぐこともなく、追い払うこともしないという、うってつけの乳母であった。
そして、子どもの名前を、オス「富士」、メス「櫻」と名付けた。
古賀は、ライオンの子どもの排泄物を茶目の口に近づけさせたり、ライオンの子どもに犬の子どもの尿をつけ、両方違和感がわかないように努力をした。その甲斐あって、順調に育っていった。(※3)
ホッとしたのも束の間、9月14日に事件が怒った。
カテリーナは運動場に出されていたが、隣接した室内には、具合の悪かった一頭のヒョウがいたのである。残暑が厳しかった日であったため、ヒョウのいる室内に風を通してやろうと仕切りの鉄柵を少し開けておいた。これが悪かったのかカテリーナは、その隙間からヒョウを引き摺り出し、大勢の観客の前で格闘が始まった。飼育員が駆けつけて鉄の棒で両者をようやく引き離したが、ヒョウは頸の骨を折られて死んでしまった。穏やかなオスのアリーに比べたら、気が強いカテリーナの一面を知った出来事であった。(※4)
富士と櫻はすくすくと育って、茶目が来て2ヶ月余り、母親として任務が終わった。11月6日に、お別れ会を開いて、育ての親と別れたのである。
その後、富士と櫻は、宝塚動植物園と台湾の圓山動物園に旅立ったのである。(※5)

昭和8年5月7日に3頭の子どもが産まれた。
オス「武」
オス「勇」
メス「花子」
である。この時は、カテリーナも母親らしく、3頭とも育てた。
この3頭の行方ですが、「上野動物園百年史」でもライオンの来歴を見ると、オスのどちらかはわからないが、オス・メス1頭づつは、函館市でハムやソーセージを販売していたレイモンさんに渡された。古賀もこの子たちとは語ってはいないが、北海道にも行っていることを述べている。(※6)
同年7月11日から始めて、実験的な飼育「幼獣園」を行った。その年は幾種の出産があり、子供の動物たちを一つの室で飼育して、どのような生活ぶりを見ようとした。
ライオン・オス 1頭
(アリー・カテリーナとの子供でなないかもしれない)(※7)
イノシシ 2頭
キツネ ・メス 3頭
ヤギ ?頭
徐々に一緒にしていた子供たちを7月18日には、4種全部を一緒にした。2日後、ライオンはイノシシにいたずらをして、キツネと仲良くなった。24日、ヒグマを入れる。
8月1日にライオンがヤギを追いかけるようになり、ヤギを退室。また、ライオンがイノシシを威嚇し傷づけるような行為となり、イノシシを退室。約2ヶ月後に実験的な飼育も終焉となった。
ライオンとヒグマは終わってからも仲が良かったので、相当長く一緒の檻に入れた。(※8)
アリーとカテリーナは、約12年間で子どもを30頭も産んだ。それが全国の動物園へと貰われていったのである。(※9)
そんな仲の良いライオン夫婦も、昭和18年8月、猛獣処分にて毒殺された。函館にいた、子供も同年9月に処分、戦後まで生き残ったライオンはいなかったので、アリーとカテリーナの一族は絶えてしまった。
アリーとカテリーナは剥製となって、昭和19年1月1日に「動物標本陳列所」として、また再び、上野動物園に現れたのである。戦後も、猛獣たちがいなくなった動物園では貴重な猛獣たちの姿ではあった。
その姿を見た、評論家の秋山正美氏は、
「こんなアリーがあるか! これは、アリーじゃない! カテリーナも違う! こんなカテリーナであったたまるか!」(※10)
幼年期に何度もライオン夫婦を見てきた、秋山はこの変わり果てたライオン夫婦に愕然とした思いであった。たてがみがふさふささせたアリーでもなく、威厳に満ちたカテリーナでもなく、まったくの別物で縫いぐるみのようだと述べている。(※11)
アリーとカテリーナの最期のように、天皇陛下に寄贈した皇帝ハイレ・セラシエも1936年にムッソリーニ率いるイタリア軍が進行して、イギリスに亡命をした。1939年の第二次世界大戦勃発、その後のアメリカ参戦で、アフリカの大部分が連合国の支配下になった。エチオピアをイタリアから奪還した皇帝ハイレ・セラシエは復位し、アジスアベバの王宮に戻ることができた。ところが、1974年の革命により君主制が崩壊し、皇帝ハイレ・セラシエは廃位、王宮内に幽閉後、翌年83歳で暗殺もしくは廃位後射殺されたと言われている。(※12)
何かアリーとカテリーナそしてその子供たちと、最期を案じるものであった。
※1 「もう一つの上野動物園史」小森厚著 48-49頁 参考
※2 「私の見た 動物の生活」古賀忠道著 昭和15年 119頁 参考
※3 「私の見た 動物の生活」古賀忠道著 昭和15年 119-141頁 参考
※4 「もう一つの上野動物園史」小森厚著 50-51頁 参考
※5 「動物は見ている」古賀忠道著 昭和35年 21頁 参考
※6 「動物は見ている」古賀忠道著 昭和35年 113頁 参考
※7 「動物は見ている」古賀忠道著では、昭和8年6月30日生まれ3頭の内1頭を書かれているが、「上野動物園百年史」では、ライオンの来園にか掲載されていない。同年5月にはアリーとカテリーナに3頭が産まれている。1ヶ月後に、また3頭は考えられないので、別なライオン夫婦か? 古賀の記載間違いで5月に産まれた3頭を6月と書いてしまったのか、今となってはわからない。
※8 「私の見た 動物の生活」古賀忠道著 昭和15年 151-160頁 参考
※9 「動物は見ている」古賀忠道著 昭和35年 109-113頁 参考
※10 「動物園の昭和史」秋山正美著(データハウス) 286頁13-14行 引用
※11 「動物園の昭和史」秋山正美著(データハウス) 286頁 参考
※12 ウキペディア「 ハイレ・セラシエ一世」にて参考