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■古高取焼「永満寺宅間窯」とは?慶長時代の織部好みの茶陶「古高取焼」の名品を焼いた幻の黒田家御用窯に迫る!

古陶磁鑑定美術館です。

「古備前焼の年代鑑定」古陶磁鑑定美術館

前回のコラムでは、福岡藩主黒田家伝来の焼き物「古高取焼」について、大まかな概要を紹介しました。

前回のコラム:古高取焼とは?を読んでいない方はこちら

今回は、古高取焼最初の窯「永満寺宅間窯」について、より深く考察していきます。

古田織部在命期の「本当の織部好みの古高取焼」とは、一体どんな焼き物だったのでしょうか?

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その真実を明らかにします!

【永満寺宅間窯とは?】

永満寺宅間窯は、古高取焼の最初の窯として1602年頃に築窯されました。

この慶長時代の前期は、朝鮮出兵が終了し、関ヶ原の合戦を経て、豊臣から徳川へと政権が移っていった時期です。

この時期には、高取焼以外にも、唐津焼・萩焼・織部焼・薩摩焼・上野焼など、さまざまな新器が登場しました。

当時は、戦乱の戦国時代から平和な江戸時代へと変遷を遂げた、時代の変化期でもありました。

戦国大名たちは、以前のように、戦争で領土を拡大したり、出世することができなくなってしまいましたので、代わりに「商業」などの「殖産興業」に注力したのです。

その中で注目されたのが、茶の湯の道具を作る「焼き物」でした。

そのような時代背景から、福岡藩の大大名黒田長政が朝鮮から連れ帰った陶工八山に命じて築いたのが「永満寺宅間窯」だったのです。

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【古高取焼、永満寺宅間窯の通説を切る】

通説では、高取焼で茶道具が焼かれ出したのは、1614年以降の内ヶ磯窯時代以降と言われています。

美術館や博物館の研究論文等でも、古高取焼の茶道具は、内ヶ磯窯で焼かれたものが概ね最初期であるとして研究が進められています。

つまり、それ以前の永満寺宅間窯では、皿や杯などの「日常の生活容器のみを焼いていた」と想定されているのです。

しかし、前述の通り、永満寺宅間窯の時代は、各戦国大名がしのぎを削って朝鮮半島から連れ帰った陶工達に「一級品の茶道具」を作らせた時代です。

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そんな時代に、九州52万石の大大名であった黒田如水や黒田長政が、連れ帰った朝鮮陶工を遊ばせておくはずもなく、日夜最先端の技術を駆使して、茶陶を焼かせていたと考えた方が適切でしょう。

とすれば、やはり常識的に考えて、永満寺宅間窯では、当時大流行していた織部好みの茶陶が焼かれていたはずなのです。

伝来の数が少ないとすれば、それが量産品ではなく、一点物の特注品として誂えられたものだからだと想定できます。

実際に、非常に僅かではありますが、永満寺宅間窯産と認定できるような茶陶が、いくつか伝世しています。また、永満寺宅間窯の焼け肌の特徴などが伝わっています。

それらの事実から、永満寺宅間窯の真実を追求してみたいと思います。

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【永満寺宅間窯の真相とは?】

では、永満寺宅間窯の真相について、できる限りの検証をしてみましょう。

まずは、当時の時代背景から考えていきます。

先述の通り、永満寺宅間窯ができたとされる時期は1600-1610年頃(慶長前期)です。次の内ヶ磯窯が1614年に開窯しますので、八山が朝鮮から来日してからおよそ15年ほどの期間使われていたと想定できます。

この期間は、古田織部を筆頭に、次々と「創作茶道具」が茶会に登場した時期です。

自身を千利休の茶の湯の弟子と称した黒田官兵衛(如水)や黒田長政も、当時の茶会記に登場しますので、茶の湯や茶陶にまつわる流行は理解していたことでしょう。

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例えば、黒田如水が鍋島藩主と古田織部の茶会に出席した際の伝承があります。

その茶会で鍋島藩主勝茂は、京都の焼き物商人たちが、自国の領土で唐津焼を無断で焼いていた話を聞き、家老に「勝手に焼かせてはいけない」と厳命しているのです。

当時の茶道具(茶陶)と言えば、名品であれば一国の価値と同等と言われるほど、高値で取引された高級品です。

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そんな状況を目の当たりにしながら、名将黒田官兵衛や大大名黒田長政が、自国の焼き物をむざむざと放置していたとは到底考えられず、また安い日常用器ばかり作らせていたとも、当然考えにくいと言えます。

唐津焼の京での大流行を目の当たりにして、高取焼もそうなるべく、試行錯誤を繰り返していたに間違いない筈です。

そして、その成果こそが、当時国内最大級の大窯内ヶ磯窯への投資へと繋がっていったのでしょう。

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ということで、当時の事実を調べれば調べるほど、永満寺宅間窯で特別な茶陶が作られていた可能性が非常に高いという結論に至ります。

【永満寺宅間窯の出土品と伝承とは?】

ここで、現代まで伝わる永満寺宅間窯の遺品と伝承について紹介します。

永満寺宅間窯の遺品(出土品)は、堺環濠遺跡や永満寺宅間窯跡から確認されています。

福岡市美術館が発行する「筑前高取焼の研究」などでそれらの画像が紹介されていますが、第一印象は、黒い地肌に藁灰釉が掛かった素朴な作品です。器種は、杯や皿などの生活用器のようです。なお、窯跡からは白釉薬の作品も出土しています。

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永満寺宅間窯の特徴は、荒い胎土、鉄分を多く含んだ黒い土質、暗褐色の釉薬、青海鼠と称される窯変、藁灰釉などと伝わっています。

ちなみに、永満寺宅間窯産の伝来品は、福岡市美術館が所有する「茶入」が2点のみしか確認されていません。

なので、永満寺宅間窯産の茶陶が、いかに貴重な品か分かるかと思います。

いよいよ次回のコラムでは、その伝世品に迫っていきます。

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ついに、史上初の新発見なるのか!?どうぞお楽しみにお待ちください!

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