ユング/MBTI考察: NeとNiの違い (1) そこから見えるMBTIの限界
個人塾&実用心理分析のOKZKです。MBTIは4心理機能モデルを用いていますが、それを8心理機能モデルへと拡張したい、という記事を書こうとしていたのですが、前置きだけで1記事分の量になってしまったので、あらかじめこちらに出力することにしました。
はじめに
MBTIでは基本的に4心理機能モデルを採用しており、「自我 (意識)」に関する記述しかなされません。それは「影 (無意識)」にまで話を広げると、不確実な要素が多分に含まれるからなのかもしれません。しかし、実際に私が塾で生徒と向き合い指導/実践する中においては、4心理機能モデルではかなり限界があると言わざるを得ません。それはもう多くの方も感じられていることでしょうが、ここで改めて私なりの実例を一つ挙げたいと思います。
「MBTIへのいざない」には、こうあります。
まず、誰もが8つの心理機能を持っている大前提があり、4つだけで各タイプ像を記述しようとすること自体に無理がある(完)、ということなのですが、まあ、あえてそこにネチネチと塩を塗り込む様な真似をしたくなるのがINTPというやつでな。ちょっと聞いて下さいよ。
問題提起
INTPの4心理機能は以下の通り。
①Ti ②Ne ③Si ④Fe
この4つだけでもINTP像をかなり説明してくれるのですが、私が何かを瞬間的に閃いた時、それはNiを用いているはず、という違和感があるのです。心理機能の理解を深めていくと、Ne的なアイデアの出し方とNi的なアイデアの出し方は、その過程は全く別物であると感じます。しかし、思いつくアイデアが大きければ大きい程、Ne / Niどちらか片方で辿り着くのではなく、Ne →Ni →Ne →Ni→…と互いに協働しながら前に進んでいくはずです。
ですが、INTPの心理機能にはNiが記述されていないため、「あなたのアイデアはNe由来です」と言われ、「そうか…私はNeユーザーか。じゃあNiってどんな心理機能なんだろうな?無意識の領域に入ってるそうだから、そんなに使ってないんだろうな。Ni=閃き、かぁ。なんかかっこいいなぁ…」という先入観を持ってしまいがちです。つまり、16タイプを4心理機能モデルで記述した場合、残りの影の心理機能4つはとても遠いイメージを持ってしまいます。これが、8つを4つに簡易化して、自我だけを記述する弊害です。
指導者が生徒を見る場合に、残り4つの心理機能が見えなくなる (影に入る)と、目の前の生徒の実像ではなく典型的タイプ像の幻影を追ってしまう危険性があるのです。きちんと、その人の無意識 (影)に入っている残り4つも見ようとする意識は、絶対に必要です。そして、ユング達人が16タイプ分類をしなかった理由は、8つの心理機能の各成長度合いを全て1つ1つ見抜こうとしていたからだと推察します。典型的タイプ像に押し込むことは、統計的には価値があっても、対面指導する上ではむしろ目くらましになる可能性があります。
(「MBTIへのいざない」にもその危険性への警鐘は再三なされていますがね。)
タイプ像の幻影を追うな!
INTPは②補助機能にNeを持つため、比較的、Nの資源を沢山持っています。そのため、普段からNiも起きやすいのです。
………N主機能の人達ほどではありませんがね。当塾のENTP /ENFP /INFJの生徒のNは強烈です笑。多分、類は友を呼ぶのでしょう、当塾にはN型の生徒が多い…というか長続きするんですね。特に、受験生のINFJさんを日々指導した経験は、Niとは何たるか?をよく学ばせてもらう良い経験になりました。生徒はいつも新しい気付きを与えてくれます…今後、書ける範囲でそれらも記事にしていく予定です。
…閑話休題。
そもそもNとは、抽象化の技術であり、その対極がSの具体化です。抽象とは「複数の物事に共通な属性を抜き出し、抽出し、これを一般的な概念としてとらえること」。Nのリソースを多く持つ限り、Neユーザーは当たり前の様にNiを使っているし、その逆もまた然り。その頻度、または初期位置の問題です。NeとNiの違いが顕著に表れるのは、やはり時間の感覚でしょうね。
Neは「外部条件を積極的に歪めて連想していく」感覚です。目の前の人や物事を、「何となく / ぼんやりと / 曖昧に」しか見えていません。複数の物事に共通する規則性を見つけ出す (抽出する)ために、自然とそういった見方を好みます。よって「仮にこうしたら… / あの人はこう言ってたけど… / でも実は…」などの仮定を置きたがる (勝手に解釈したがる)のです。それを積み重ねていった結果、ある推論にようやく辿り着くイメージ。従って、Ne的なアイデアには、到達するまでにある程度の時間がかかる (違う表現をすれば「こうで、こうで、もしこうだとすれば…多分こうだな」みたいに複数ステップを踏む、それが簡単な問題で一瞬でやればNiの様には見えるが、難しい場合は長時間ああじゃないこうじゃないと試行錯誤する、その姿が「好奇心」の様に見える)。
一方、Niは「すでに構築された内部記憶システム群と自発的に連結する」感覚です。目の前の出来事に対して、過去の似た経験や知識のイメージやアイデアが瞬間的に飛び出てくる。なぜそうなるかと言うと、脳内の記憶が強固に連結された状態で収納されているからです。例えば、六角形(⬢)を見て蜂の巣のイメージが瞬間的に湧く。そこに理由はなく、脳内で近しい情報として分類 / 連結されていたからです。よって「こうに違いない! / あの人の言った意味はこれだ! / あそうか!」などの思い込みが激しい (勝手に決めつける)のです。従って、Ni的閃きはほんの一瞬でなされる (思い出せないものをようやく思い出せた時のあの記憶が連結する感覚、アハ体験、あくまで連結が一瞬という意味「あ、なんか閃きそう…う~ん………?あ出た!」はあり得る、自分でも制御できないのが「閃き」)。
N機能、抽象化、NeもNiも「連」という言葉が相応しいでしょう。本質的には、Nのリソースを持った人が、それをextraverted状態を指向すればNeだし、introverted状態を指向すればNiになるだけで、本質的には「連なり (繋がり)」を探すと言う点でNeもNiも同じことです。用いる場 (外界⇆内界)が違うだけ。ただし、そのプロセス上、アイデアに到達するまでの所要時間が異なり、Neは比較的長く、Niは一瞬。Neに対しても「閃き」という言葉がしっくりきてしまうこともあると思うので、使い分けは注意が必要です。傍から見ていて、最も分かりやすいのがNeで、最も分かりにくいのがNiとは、なんとも妙ですね。しかし実用的には先程書いた様に、Ne →Ni →Ne →Ni→…と互いに協働するので、その違いを明確に自覚するのは難しい。
つまりMBTIへのいざないにある通り「誰もがこれら8つの心の働きすべてをもって」いる訳ですから、誰もがNiを経験しているのです。このNiの経験とは、脳内に一瞬で答え(イメージやアイデア)が浮かび上がる鮮烈な経験であるので、多くの人が「私はNi主機能だ!(←Ni)」と勘違いする (思い込む)のも無理ありません。しかし、Ni主機能のINFJやINTJは、恐らくNiに振り回されて恥をかかされた経験が少なからずあるはずなので、むしろNiを嫌っている (恐れているが正しいか?)と思います。自慢できる程度のNiユーザー / Ni万歳 / INFJやINTJに憧れを持てる程度であれば、Ni主機能ではないでしょう…私も三日くらい経験してみたいものです。
少し脱線しましたが、話を元に戻すと、「誰もがNiを経験しているはずなのに、MBTIの4心理機能モデルではNiを記述できないタイプがいる」…このことが、何やら神秘的なNiを更に神秘的にさせたり、NeとNiの違いって何?とか色々と誤解を生んでいる気がします。普段の「あそうだ!この前の〇〇しよう!」という大したことない閃きを含めば、誰でもNiを体感しているし、日常的なものだと言える。「なんで急に思い出したんだろう?」とか「なんで思い出せなかったんだ!」とか、自分でも制御不能な点が、Niの神秘的な面ではありますがね。
結論
やはり即ち、8つあるものを4つで解釈している以上、実用的にかなり無理がある、というのが、私の体感です。そしてマニュアルに書いてあるほど、無意識領域の機能をほとんど使っていない訳ではないと、私は考えています。だからこそ、4心理機能モデルを8心理機能モデルへと拡張することが、教育や指導の現場に投入する際には必須だと考えているのです。
またこれは4心理機能モデルにおける劣等機能にも同じことが言えると思うのですが、よく劣等機能はほとんど使わないと記述されていますが、その先入観は本当に正しいのか?むしろ偏見を生む枷にならないか?と危惧しています。私のINTPの劣等機能はFeですが、幼少期からかなり強いFeが出ていたと自覚しています。それは複数要因あるので詳しくは別記事にしますが、特に顕著な影響を与えるのが、家庭環境です。私は物心ついた時から母子家庭でISFJの母に育てられ、強いFeの影響を受けました。そんな昔の私を指導する場合、「この子はFeは弱いだろう」という指導者の先入観は、きっと癪に障ったでしょう。しかし確かに、私のFeの中にはいつもTiの面影が混ざっているので、歪だったでしょう。しかし当時の私なりにFeを大切にしようと思った気持ちは本物でした。
「劣等機能だからこの子はこうだろう」という予測を妄信してはいけない。ユング心理学の「類型論」で示す8つの心理機能は、あくまで「器」であり、環境要因によって注がれる「水」の流動、即ち「特性論」まで考慮しなければならない。空っぽの「器」を見ても、そこに中身はない。
…それはまた長くなるので、またいつか。
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