大久保キネマの時代
大久保キネマ誕生
関東大震災で麹町の家を焼け出されて、翌年の大正13年3月に大久保百人町に移り住んできたのが、作家・岡本綺堂である。捕物帳の嚆矢であり、日本の探偵小説のさきがけもであった「半七捕物帳」の作者であるのはもちろんのこと、江戸風俗の研究でも知られた碩学だ。大久保は震災による被害も少なかったということもあるが、実は、綺堂はこの時、大久保に住むという三浦老人に江戸末期の奇譚を語らせる「三浦老人昔話」を執筆中でもあった。自らが創造した作中人物の住む町に移ってきたということになる。
綺堂は、大久保での一年三カ月ほどの生活を随筆や日記に書き残しているが、大正13年11月14日の日記に次のような一節がある。
「理髪店の前には大久保キネマという活動写真館が新しく出来ることになって、しきりに工事を急ひでいる。」(「岡本綺堂日記」)
大久保キネマは、新大久保駅の隣に存在した映画館である。現在で言えば大久保通りとつつじ通りの角地あたりに建てられた。開業は、綺堂の日記の一ヶ月後、そして、震災のおよそ一年後の大正13年12月20日のことだ。木骨鉄鋼コンクリート塗りの二階建て、定員は500人ほどだった。それまでの「活動写真」という呼び名から「映画」へと変わりつつある時代で、「シネマ」「キネマ」という言葉も流行していたといい、洋画を上映する映画館は、シネマ銀座、シネマパレス、目黒キネマ、などといった館名を施して、ハイカラを演出する風潮があった。大久保キネマもそんなハイカラな洋画専門館のひとつとして誕生したのだろう。
経営者は関田安隆という。その人となりは詳らかではないが、明治大学の法科を卒業しているというので、明治大学の「校友名簿」を当たってみると確かにその名前があり、昭和3年卒とされている。大正11年版の「日本新聞年鑑」には、中外商業新報社の編集局に関田安隆という名前があり、これが同一人物であれば、新聞の編集者から映画館経営者に転身したことになる。中外商業新報はのちの日本経済新聞社であり、当然ながら法律に関する知識も求められ、社会人を経て法科に入るというのは十分に考えられることであろう。ただ、新聞社勤めを辞めて映画館を興したのか、それとも、新聞社勤めを続けながらの経営だったのか、そのあたりはわからない。ちなみに、妻は紅葉屋銀行專務理事・三好海三郎の長女・静子であるというから、関田は、実業家としてそれなりの評価を得ていたのだろう。
ところが、大久保キネマの経営権は、一年後に関田安吉なる人物に移っている。この人物については安隆に輪をかけて情報がないのだが、おそらくは親族だろう。経営者の椅子は譲ったものの、映画館の所有はそのまま安隆にあったらしいことから、当初から、安隆が映画館を興し、その後に安吉に経営を任せるというのが既定路線だっだったのかもしれない。
さて、新宿地区で最初に作られた映画館は、今の新宿二丁目の太宗寺境内にあった「大幸館」で、明治42年のことだ。その後、大正9年には、「映画の殿堂」と称され、東京の映画文化やモダニズムの中心地となる武蔵野館が、新宿通りに開業した。この場所は、後に三越百貨店となり、現在は「ビックカメラ新宿東口店」となっている。また、2年前の大正11年には、同じ西大久保の鬼王神社前に「三栄館」が開業し、大正15年には「大久保館」に改称した。つまり、大久保キネマは、新宿地区の映画館のパイオニアのひとつであったのだ。
洋画専門館として
大久保キネマは、洋画専門館として始まった。
当時の映画館では、上映作品などを紹介する、プログラムと呼ばれる小冊子が独自に編集されて無料配布されており、大久保キネマでも「Okubo kinema weekly」が作られている。この小冊子は、国立映画アーカイブのWEBサイト「映画資料ポータル」で、何号分か閲覧ができるが、開業から間もない大正14年2月13日発行の第一号には、2月の上映作品として「映画の父」とも称されたD・W・グリフィスの「夢の街」(1921)などが5本立てで紹介されている。
その後も、セシル・B・デミル「十戒」(1923)が大正14年4月に、チャップリンの「キッド」(1921)が大正15年2月に、ジョン・フォード「三悪人」(1926)が昭和2年5月に、と、名作として名を残すことになる洋画が上映されていることが確認できる。
コメディアンの古川ロッパは、この頃、チャップリンの「黄金狂時代」を大久保キネマで観ているという。(『古川ロッパ昭和日記 戦後篇』)「Okubo kinema weekly」を確認してみると、これは、おそらく大正14年12月のことかと思われる。
作家・大島政男は、「大震災で映画館らしい映画館のなくなってしまった東京では、洋画を見たければ、大久保キネマ、目黒キネマ、また新宿武蔵野館あたりまで行かねばならなかった。」(「大正も遠く」)と書いている。
確かに、震災で、都心の多くの映画館が焼失した。一方で、震災直後に開業した映画館も多い。新宿地区では、四谷の新宿松竹座、新宿西口の新生館、番衆町の遊園地「新宿園」内に作られた孔雀館、早稲田の戸塚キネマ、淀橋の公楽キネマ、そして、大久保キネマである。
大正12年には三越マーケットが開かれ、翌年には新宿デパート(三越新宿追分分店)となる。新開地・新宿は一大繁華街として発展し、映画館も続々と開業する。新宿は、名実ともに映画の街になった。昭和2年には、新宿駅の一日の乗降者数が、東京駅を抜いて日本一になっている。
あまりにも有名な「東京行進曲」(唄・佐藤千夜子)は昭和4年に作られており、四番の歌詞には、新しい盛り場・新宿が歌われている。小田急電鉄は昭和2年に開通したばかりであった。作詞は西條八十である。
「シネマ見ましょか、お茶飲みましょか
いっそ小田急で、逃げましょか、
変わる新宿、あの武蔵野の
月もデパートの屋根に出る」
(「東京行進曲」)
川本三郎氏によれば、歌謡曲に新宿が歌われたのはこの曲が初めてだったという。(「新宿武蔵野館に始まる」『映画の殿堂 新宿武蔵野館』所収)
弁士と女給
この時代に上映されていたのは、言うまでもなく無声映画だ。弁士がスクリーンの左端に設けられた演壇に立ち、映画の解説や説明を行っていたのである。弁士は「説明者」とも呼ばれており、大正から昭和にかけては映画スター以上の人気を博して、弁士の良し悪しが映画館の興行成績を左右するほどだったという。
その頃、大正15年に、大久保キネマで弁士の見習いをしていたというのが、映画評論家の筈見恒夫である。筈見は、武蔵野館の花形弁士であった徳川夢声に弟子入りしていたが、その後、神田シネマパレスの宣伝部の玉川四郎と親しくなり、シネマパレスに入ると、大久保にあったという玉川の下宿に身を寄せている。その縁だろうか、シネマパレスの次に移ったのが、地元の大久保キネマだったのである。その後、筈見は弁士を断念し、映画宣伝や評論の道に入ることとなる。玉川は、その後、松竹洋画部の宣伝担当となった。
ちなみに、筈見家は、恒夫の長男が同じく映画評論家の筈見有弘であり、有弘の妻もまた映画評論家の渡辺祥子という、映画一家である。
同じ頃、大久保キネマで、チャップリンの「巴里の女性」(1923)を観たというのが、明治44年生まれの劇作家・宮津博だ。弁士が徳川夢声だったから、ということもあり、雪の戸山ヶ原を横断して観に行った、という。 (「活動狂」『児童演劇 第8号』所収)
「Okubo kinema weekly 13号」によれば、昭和2年3月に、確かに「巴里の女性」がかかっている。ただし、弁士は徳川夢声ではなく、国本輝堂と記されている。「巴里の女性」の日本公開は、それより数年前の大正13年10月だが、夢声が弁士をしていた武蔵野館では大正14年の2月に上映されている。もしかしたら、大久保キネマで観たというのは宮津の記憶違いで、実は武蔵野館に観に行っていたのか、いや、大久保キネマで観たものの、まさか、弁士が夢声だったというのが記憶違いだったか。もちろん、ここは勝手な想像の域を出ない。
その後、トーキー映画が輸入され始める。特に、昭和6年公開の「モロッコ」(1930)以降のトーキーには字幕も付けられ、弁士たちは居場所を失ったが、高い話術を生かし、他の分野へと進出することで活路を見出す者も少なくなかった。夢声も、俳優のみならず、ラジオやテレビでもその地位を築き、そして、文筆業までこなすマルチタレントとなっていった。
この頃の大久保キネマには、女給についての逸話も残っている。ここでいう女給とは、場内案内係、改札係(モギリ)、札売係などを担当していた女性の総称である。ちなみに、札売係は、英語の「ticket」から、「テケツ」と呼ばれていた。場内案内係は、客の手を引いて座席に案内するので「手引き」とも呼ばれていたという。「別嬪さんに手をとられて坐らせて貰って五十銭とは安い」などと喜んでいた男性客がいたという時代の話である。
「(前略)前に大久保キネマが西洋物専門時代に、其所の二階の女給達は着物を着換へるのを特等席の裏の廊下でやって居た。勿論彼女達も最初の頃は無意識であったらうし、そこの壁には鏡があったので着換へをするには非常に適当であったが、それを発見した御客が承知しない。そこで慣れ居た客が閉場前になると、その場所の見える所に坐ったり、又は彼女達の所へ立って行ったりして、大分評判になったことがあった。」(「変態資料」)
また、お千代さんという人気の美人女給がいて、武蔵野館や目黒キネマ、そして、大久保キネマなどを渡り歩いていた。お千代さんはモギリの名人でもあり、彼女がモギリに座ると客が増えたという。
昭和5年、大久保キネマの経営を引き継いだのは、大蔵貢である。大蔵はもともと美声が売り物の弁士で、21歳で赤坂帝国館から武蔵野館に移ってきた。徳川夢声と並ぶ人気だったが、トーキー時代の到来を見据えて、早々と映画館を経営する側へと転身する。最初の頃は弁士とかけもちであったが、25歳の若さで浅草千代田館の経営に手腕を発揮したのを皮切りに、広尾キネマ、六本木松竹館、そしてシネマ銀座、と、赤字館を次々と立て直し、成功させていく。大久保キネマは、大蔵が手がけた映画館のうちのひとつだったというわけだ。
大蔵は、戦後、新東宝の社長となり、その後、大蔵映画を設立した。大蔵映画は、のちに、ピンク映画の製作を手がけるようになる。大蔵は、昭和33年には実業者として高額所得者の一位となっている。
「湯の町エレジー」で有名な歌手の近江俊郎は、大蔵の末弟である。
昭和9年、大久保キネマの経営は、高橋鉄骨という人物が引き継いだ。
開業当初から経営者が入れ替わってきた背景には、実は、館の業績が思うようには振るわなかったということがある。大正15年の「広告総覧」には、大久保キネマが広告料を滞納しているため、東京通信社が各媒体に広告の不掲載を通知した、とも記されているほどだ。
経営難にともない、配給系統も次々と変わっている。開業当初は洋画専門での自由選択だったのが、その後、国活シネマ、帝国キネマ、さらに、大蔵の時代には、松竹、その後は新興キネマの配給となった。
その頃、映画評論家・児玉数夫は、若き日のジョン・ウェイン主演の連続活劇「流線怪盗列車」を観るために、毎週、大久保キネマに通っていたという。(児玉数夫『西部劇 娯楽映画の世界』社会思想社)
「流線怪盗列車」とは、1932年に製作され、昭和10年に日本で封切られた「The Hurricane express」のことだ。連続活劇というのは、一本10分から20分程度の連続した短編をドラマ形式で毎週のように上映していく低予算のアクション映画である。この作品は12話完結だったから、児玉は、12週つまり3カ月に渡って大久保キネマに通ったことになる。おそらく、昭和10年代初頭のことではないだろうか。
戦時下の大久保キネマ
昭和12年に日中戦争が始まって日本は戦時国家となり、昭和13年には国家総動員法が発令された。これにより、国民の生活や経済は国家の意思のままに統制されるようになる。
そして、昭和14年には、悪名高い映画法が施行され、映画事業も国家の統制下に置かれた。映画は、シナリオ段階から厳しい検閲が行われるようになったのである。
同じ年、大久保キネマは東宝の直営館となり、名称を「大久保映画劇場」に改めた。二番館として、邦画、洋画問わずの上映を行うようになる。「エノケンの法界坊」「エノケンの孫悟空」といった東宝映画が上映されたのもこの頃である。
昭和16年、太平洋戦争が始まると、アメリカ映画の上映が禁止された。そして、国家は国策映画の制作を推し進めるのである。国策とは国家の政策のことで、国策映画とは、国家が関与し、国策を宣伝するために作られた映画のこと、多くの映画人が協力を行ったとされている。
例えば、山本嘉次郎監督の「ハワイ・マレー沖海戦」は最も有名な国策映画だろう。真珠湾攻撃やマレー沖海戦を描いたもので、円谷英二が特撮監督を務めた戦争スペクタクルであり、その特撮技術は今も高く評価されている。もちろん、大久保キネマでも上映された。
同じ年、社団法人映画配給会社が作られて映画の配給が一元化され、全国の映画館の半数が紅白の二系統に分けられた。そして、毎週、長編映画を各系統で封切るという興行体制になり、各地域で、映画館は二十番館まで設定された。大久保映画劇場は、紅系の四番館となった。
この二系統上映制下で大ヒットしたのが、昭和17年封切りの「マレー戦記」だ。シンガポール陥落までのマレー半島における日本陸軍部隊の行動を追った記録映画で、陸軍省が後援し、文部省が推薦している。
倫理研究所を設立したことで知られる丸山敏雄は、この頃、大久保映画劇場で「マレー戦記」を観ている。
「(前略)家内をつれて大久保映画劇場に「マレー戦記」を見にゆく。場内には傷痍軍人あり。映画亦シンガポール攻撃なり。涙なしに見ること能はず。」(「丸山敏雄日記」)
丸山の「涙」については、何も、後年の「宗教的右翼」などという評価をことさらに持ち出す必要はないだろう。そもそも、こうして、国民に軍人たちへの感謝と共感とを促し、国策に協力させるのが、国策映画の目的であったからだ。
ところが、国家の思惑は必ずしも成功したわけではないという。古川隆久氏は、「結局、全体として昭和戦時期の人々は国策映画を観ようとしなかった。」と書いている。(『戦時下の日本映画』)国策映画は娯楽映画には敵わなかった。国策についてなら、新聞やラジオ、隣組の回覧板や町内会の掲示板で知ることはできたので、わざわざ、つまらない映画を観に行く必要はなかった、と。「マレー戦記」や「マレー沖海戦」などのヒットは、むしろ例外であったらしい。
昭和17年、同じ西大久保、鬼王神社前にあった大久保館が閉館した。そして、大久保キネマ(大久保映画劇場)にも、ついに終焉がやってくる。昭和19年4月の第三次建物疎開である。
建物疎開とは、戦時中の空襲による被害拡大防止のための強制的な建物撤去のことだ。民家や建物が密集する地区を空地にすることで防火帯を確保し、延焼を防ぐことが目的だった。新宿地区の映画館では、新宿駅前の新宿劇場、中村屋の裏手にあり、昭和10年からは吉本興業の直営「新宿花月」になっていた新宿帝国館、その向かいにあった朝日ニュース劇場、西口の大ガード近くの新宿電気館、牛込の文明館、戸塚の早稲田帝国館などが、建物疎開で取り壊され、閉館している。
大久保では、角筈から百人町三丁目、つまり新宿駅あたりから新大久保駅にいたる山手線沿線の、延長1160メートル、面積1万5700坪が建物疎開に指定された。大久保映画劇場は、この指定地域にあったのである。
しかし、最新鋭爆撃機B29の広範囲な絨毯爆撃に対し、付け焼刃のような建物疎開では延焼も食い止めようがなく、帝都は焦土と化した。大久保や百人町への空襲は昭和20年4月13日。この日の夜、東京の下町から山の手一帯に激しい爆撃があり、全体で20万戸近くが焼失した。「城北大空襲」とも呼ばれ、同年3月10日の、いわゆる「東京大空襲」に次ぐ規模であった。
大久保キネマの強制疎開から一年、そして、終戦まで4ヶ月のこの日の夜、空襲を受けた淀橋区ではおよそ8400戸が焼失、大久保は、ほぼ全域が焼け野原となった。この日の空襲について自伝的小説「永遠の都」の中で描いているのが、加賀乙彦である。加賀の実家は病院で、当時の西大久保一丁目、今の歌舞伎町二丁目の、明治通りからほど近い場所にあった。悠次というのは、加賀自身である悠太の父親である。
「悠次は物干台に駆け上がった。とたんに恐怖が胸を万力のように締めつけた。四方八方が火炎に囲まれていたのだ。南西の新宿駅の方角に遠火が見える。双眼鏡で観察すると、新宿駅前の二幸ビルの辺りが最も炎の背が高い。そこから都立第五高等女学校の森に移り、住宅街を赤い怪獣のようにこちらに向かって這って来る。西から北にかけては、祭の仕掛け花火さながら、つぎつぎに火柱があがり、百貨店の別館、大久保国民学校、陸軍戸山学校、元東京陸軍幼年学校(いつの間にか疎開した)と所々の火柱が融合して次第に連続した大火になりつつある。そうして、東は抜弁天、東大久保の高台が盆の油に点火した感じで燃えている。」(「永遠の都」)
二幸ビルとは今の新宿アルタのことで、焼夷弾が、まず、このあたりに落ちて、そこから火災が広がったらしい。火炎が、新宿から北へ、大久保の町へと近づいてくる様子が描かれている。さらに、加賀は、B29の爆撃を、「正確で濃密で非情な絨毯爆撃である。」と表現している。
ところが、10万人ともいわれる死者を出した3月の大空襲に比べ、この日の空襲による死者はかなり少なく、2000人ほどであった。その理由については、逃げやすい地形であったことと、3月10日の大空襲を見て人員疎開が進んでおり、そして、消火よりも逃げることを優先したということが指摘されている。
例えば、大久保では、幹線道路である明治通りが避難路として確保できたことと、通り沿いに広大な緑地、つまり明治神宮や外苑、そして、戸山ヶ原や新宿御苑などの避難場所があったことを挙げているのは、二宮三郎氏である。(「昭和二〇年四月十三日の空襲」『戦争の中でぼくらは育った』所収)二宮氏は、その夜、実際に明治通りを避難路に使って南下し、新宿第一劇場に避難したという。現在の大塚家具のあたりにあった歌舞伎劇場である。百人町に住んでいた精神科医の小此木啓吾は、戸山ヶ原に逃げたという。(「新宿・世界の繁華街」)「永遠の都」でも、悠次の家族は、明治通りを外苑の絵画館前広場まで逃げている。また、二宮氏と同じように、加賀も、「被害が少なかったのは、住民が大通りを通って、いち早く明治神宮や外苑に逃げたせいであろう。」とも書いている。
そして、二宮氏も、早期の避難が功を奏したと続けている。
「大衆は、三月一〇日の圧倒的なB29の爆撃を目の当たりにして、もはや敵機の攻撃は防げず、消防は役に立たず、『命あっての物種』『逃げるが勝ち』を学んだのである。」(「昭和二〇年四月十三日の空襲」)
建物疎開があっても、残った家々の延焼は防ぎようがなかった。町が燃えようとも、人々は消火よりも何よりも逃げること、逃げて生き延びることを最優先した。3月の大空襲の時のように、その場に踏みとどまってバケツリレーで消化するなどという非科学的な指導に従うことはなかった。また、幸いなことに、大久保には町を縦断する明治通りという命綱があり、人々はこの幹線道路をつたって、とにかく逃げたのである。
ただ、命からがら生き延びて戻ってきた時には、大久保の町はもう焼け野原であった。
建物疎開は免れたものの、元の大幸館である新宿日活館、新宿座、早稲田映画劇場なども、空襲で焼失した。
終戦から数年が過ぎ、新宿駅周辺の映画館もようやく再建・復興の兆しを見せ始めた。そして、再び「映画の街」として戻ってくるのは、昭和20年代後半のことだ。そして、映画はもう一度、黄金時代を迎えるのである。
ただし、大久保にあったふたつの映画館、大久保キネマも、そして、大久保館も、二度と再建されることはなかった。
震災と戦災との狭間、わずか二十年の間だけ存在した幻の大久保キネマ。その後、現在にいたるまで、大久保に映画館は存在しない。
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