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映像翻訳者になって、そして辞めるまでの10年間を綴る(2)
こんばんは。
昨日は、映像翻訳者を目指して超ハイテンションで22カ月のコースを駆け抜けたところまで書きました。
最後の課題を提出し終えたときは感無量でしたね。
あまりの感動に、課題提出画面をスクショして仲の良い人たちに送りつけたことを今でも覚えてます…。
みんな忙しいのに、ほんとゴメンとしか言えない。
まるで司法試験にでも受かったかのような騒ぎですが、これ、「最後の課題を出し終えた」だけですからね。
では、続きです。
実は、もうだいぶ前からチョロチョロと下書きに書き溜めていたため、記事の更新は早めです!
トライアルについて
ここで、トライアルについて少しだけ。
トライアルはオンラインですべて完結するものでした。
課題配信日から提出期限までの間の、任意の5日間で映像に字幕をつけてスクールに送り返すというもの。尺は10分ほどでした。
これね〜、私、バカ正直にホントに「5日」しか作業をしませんでした。誰が見てるわけでも、ログイン時間なんかが出るわけでもなかったのに。
提出期限が2週間あるのに5日を守ってる人なんていないんじゃないの、と言われたこともあります。
本来は5日で仕上げないといけない尺のものを2週間かけて作業して合格したところで、のちのち困るのは自分なのでは?と思ったりもするんだけど、まあ、今となってはマジでどっちでもいいですね(爆)
1回目のトライアルは不合格(33歳)
記念すべき1回目のトライアル。
コーヒーの焙煎に関するドキュメンタリーでした。
平日は会社があったため、有給、土日、早朝、深夜なんかを駆使し、トータル5日分の時間を見つけて死ぬ気で納品したのをよく覚えています。
提出直前になって「焙煎」という漢字のどっちか(忘れた)が常用ではなかったことに気づき、半泣きで修正したのも今では良い思い出…。
自信満々だったものの、結果は不合格でした。
もちろんめちゃくちゃショックでしたが、あとから送られてくるフィードバックにて、合格まであと一歩の「次点」入選までほんの数点だったことを知り、俄然やる気が復活。
「次点」までほんのわずか。
つまり、まごうことなき不合格じゃないですか…。
それでもモチベーションが上がり直すあたり、ほんと楽観的というかポジティブというか。
書いてて、自分にちょっとイラッとするレベル。
7回目にしてつかんだ合格(34歳)
そのあとも隔月のトライアルを休むことなく受け続け、ほぼ毎回次点に入るように。
午前4時になんとか提出し、その2時間後には起きて会社に行くという回もありました。
本当に、本当に翻訳者になりたかった。
でもどこかで、翻訳者になれば、トライアルに受かりさえすれば、ガラリと人生が変わると本気で思っていたところもあったかもしれないです。
環境や職業が人生を変えるのではなく、自分の考え方や意識が人生を変える。
そんな当たり前のことを、当時の私はまったく分かっていませんでした。
「いつになったら合格できるのか」という気持ちよりも、「少しずつ要領もわかってきたし、翻訳者になるまであと少し!」というような具合で、まあ、ほんとどこまでも前向きだったように思います。
そして7回目のトライアル。
題材はしっかり覚えています。
カナダに住む獣医さんのドキュメンタリー。
このときは確か、有給、土日、代休なんかをあわせて丸々5日間、作業時間が取れたと記憶しています。
ドキドキしながら合格発表のページを開き、自分の名前が目に飛び込んできたときの感動は、7年経った今でも鮮明に覚えています。
真っ先にしたことは、泣きながら、これまた合格画面のスクショを撮って今まで応援してくれた人たちに送りつけるということでした…。
ここまで来るともう…。
いや、でも、私は、自分の親友や家族が何かの目標を達成して、そのあかつきにスクショを送ってきてくれたらめちゃくちゃうれしいですよ!!!
これは本当です!!
On the Job Training(34歳)
合格すると即、OJTの始まりです。
同時期に合格した方々とチーム翻訳にて1本のドキュメンタリーを完成させ、スクール担当者に提出し、フィードバックをもらうというもの。
OJTのメンバーは、会社員の私、カナダ在住の方、そして主婦の方がお二人でした。みんな揃いも揃っていい方ばかり、超優秀。
そしてこの中のひとりが、今では大事な友人です。
このOJTがもう、めちゃくちゃ大変でした…。
私は日中、メーリスのやりとりに入れなかったため、終業後に慌てて溜まったメッセージを確認。
家に帰って夜中まで翻訳し、朝起きてカナダの方からのメッセージを確認して(時差あるから)、また会社へ…。
だけどそんなことよりも何よりも、一番きつかったのは、私だけフィードバックのダメ出しが多かったことですね…。
他の方たちはみんな概ねよくできている、という評価だったのですが、私だけ「一見まとまっているようで、なんとなく流れが悪い」とか「原文のニュアンスが出せていない」とか、きびしいコメントが多かったのです。
今の私ならこれぐらいのことではまったく落ち込まないですよ。
だけど当時、このフィードバックをもらった夜は本当に悔しくて悔しくて眠れませんでした。
こういうことを経験して私は強くなったのか、
それとも別に強くなってないのか、
なにか得たものはあったのか、
今ではよくわかりません。
寝食の時間を削って、寝不足でフラフラになりながら納品することが本当に褒められるようなことなのか、今でもわからないです。
プロの翻訳者としての活動(34歳〜)
ようやく掴んだ映像翻訳者という仕事。
初仕事はホラー映画でした。幸いにも納期が長かったため、会社と両立できると踏んで受注したんですね。
それはそれはもう、超〜張り切りました。仕事なので真面目にやるのは当たり前なんですけどもね。
その後は、納期が長いものか、少しだけ負荷の軽いチェッカーをするか、お盆休みや冬休みを全部潰して受注するかといった感じで、自分のできる範囲で案件をこなしていきました。
夢にまで見た翻訳者という仕事。
あれだけたくさんの人に応援してもらって、自分でも必死に頑張ってつかんだ仕事。
なのに、私はなぜ会社を辞めなかったのか。
なぜ、すぐにアメリカに行かなかったのか。
必死で見て見ぬふりしていましたが、自分の心の中に少しずつ違和感が生まれていたからですね…。
気持ちの変化
そうです、わりと早い段階で思い始めます。
めっちゃ大変なのに全然稼げないやん…と。
私のいう「稼ぐ」って、別にめちゃくちゃ高給じゃないですよ。質素な一人暮らしができるくらい、ととらえてもらってOKです。
もちろん、最初の頃は自分の力不足だけが唯一の原因だと思ってました。自分がもっと勉強して、力をつけて、もっと早くこなせるようになれば稼ぎも変わってくると。
もちろん、それが稼げない理由のひとつなのは確かです。
事実、フリーでバリバリやっている翻訳者さん、とても優秀な翻訳者さん、仕事が大好きな翻訳者さんもたくさん見てきました。
まあ、このあたりの葛藤についてはこちらをご参照くださいませ。
晴れて翻訳者になったものの、これ1本では到底生活できないやん…となった私。
とりあえず、映像翻訳の他にもいくつか別の仕事を持って、兼業フリーランスになるのがいいのかなぁ、などとぼんやり思ったりして。
ぼんやりと思ってることが首尾よく、なんとなく、うまい具合に叶っていくなんてことありえないですね。目標とか夢って、これでもかというくらいクリアに、明確にして初めて叶うもの(ただの持論)。
実は、会社のほうはといえば、3年目を過ぎたあたりからすっかり慣れてきて、ときどき「ここも本当に楽しいかも」と思うほどに。
イヤな人がいなくて、ときどきでも楽しいと思えて、社食が安くて、控室がきれいで、ボーナスが出て、日曜の夜も特に憂鬱にならない職場。
そんな職場、お金を払って見つかるものでもないのに。
なんで私は、それなのに、毎日何かしら愚痴や文句を言っていたんだろう。
そんな状態だったので、次の行動をまったく決められず。
受けられそうな翻訳案件をなんとか受けつつ、会社も辞めず、「ああ〜、でも、やっぱりアメリカは行ってみたいけどなぁ〜」というなんともぼんやりとした、宙ぶらりんな気持ちだったころ。
世界を揺るがす大事件が起こります。
そう、コロナですね……
これがなければ、私は会社を辞めず、アメリカにも行かず、もしかしたら翻訳者のままだったかもしれません。
続きはまた近いうちに書きます!
お読みくださりありがとうごさいました。