見出し画像

映像翻訳者になって、そして辞めるまでの10年間を綴る(1)

こんばんは。
今回は、以前から「書こうかな〜いや、でも過去の話だしな〜」と思って少し寝かせておいた(?)テーマで書いていこうかなと思います。

最近、相互フォローさせていただいたばかりの同業者の方のnoteを読んでいて、やっぱり私も書きたい!という気分に。

ほぼ10年間、携わってきた映像翻訳の世界。
こりゃ生活できん、にっちもさっちもいかん、しばらく翻訳はお休みやわ…となった今、あまりにも濃すぎた怒涛の10年間をゆっくり振り返ろうかなと思います。長くなるので、何回かに分けて投稿します!


ボロボロのキャリア迷子から、「映像翻訳者になる」という目標を見つける(31歳)

超〜楽しかった大学院を卒業後、英会話学校の専任講師になったわたし。このとき、まだ28歳。
あまりの激務(講師職とは名ばかりで、実態はごりごりの営業職)、超ヒステリーな女上司、サビ残などが積み重なり、あれよあれよという間に体を壊して休職→退職。
もうほんと、英会話学校だけは二度と戻りたくないですね。私はね。あのときのことを思い出すと、今でもズーン…とテンションが下がるくらい。

さて、退職したはいいものの、貯金も減る一方だしこりゃあイカンと慌てて再就職。
ゆるゆる、ぬるま湯のストレスフリーな職場(3年満期の契約職員)ではあったものの、それはそれはびっくりするほどの超薄給でした。
そりゃ、焦って決めたから…。
もちろんこのままでいいはずもなく。

職場がストレスフリーだったことも幸いして、あらためて、ようやく自分のキャリアについてしっかり考え直す時間を取ることができたわけです。

しっかり考え直したはずなのに10年後またキャリア迷子だよ!!と言いたくはなりますが、まぁ若かったから…。

自分なりにキャリアについて考え、いろいろなことを調べ、大して役に立たなそうな資格までちょろちょろっと取り、もろもろ熟考した結果。

よし、わたしは映像翻訳者になる!!手に職をつけたあとはアメリカに行こう!!という、今思えばツッコミどころ満載の目標を立てたわけです。

まがりなりにも院卒なのにこの認識の甘さ。
年収や安定をなぜ第一に考えなかったのか?

ボロクソ書いてますが、映像翻訳の仕事をけなしてるわけでは決してないんです。
やりがいはある。これは間違いないです。それだけは今でも強く思ってますし、誰かのためになる仕事だし、何度も書いてますが、対人関係のストレスはほぼ皆無。これもほんとデカすぎです。
 ただ、映像翻訳1本でマトモに稼げる人は多くないよ、ってことなんですよね。あと、単価も年々下がってるけど、それに耐えられるのかってところも。

当時はとにかく若かったことや、めちゃくちゃフリーランスになりたかったこともあって(これは今も憧れはある)、この目標を思いついたときは「これだ!!」と目の前がパーッと明るくなったのをよく覚えています。

通信講座の受講を開始(31歳)

さっそく22カ月の通信講座を申し込み、意気揚々と勉強開始。
全部で4コース受講→トライアル→合格→OJT→仕事開始、というクリアな道筋でした。
最初のコースを修了するころには映像翻訳の世界にどっぷりと浸かっており、時を同じくして見始めたアメリカの超人気ドラマ「プリズンブレイク」にもドハマリし、なによりもアメリカが大好き!状態に(?)

映像翻訳の仕事が、そしてアメリカが私を呼んでいる!!一刻も早く翻訳者になりたい!!と謎のハイテンションに。この変なテンションを何年もキープしてたんだからホントすごいですね。

まともな会社に転職(31歳〜)

コースが上がるにつれて講座代も高額になっていくし、お金が貯まったらすぐにでもアメリカに行きたいし、ということで薄給の職場をサッサと辞めて転職することに。

私はこの頃、トライアルに一発で受かる気満々だったので、新しい職場は長く見積もっても2年くらいで退職することになるだろう、と本気で思ってたんですね(どこまでも考えなしで呆れる)。

年間休日数が多く、ボーナスがちゃんと出て、なおかつ契約社員、というピッタリな職場に出会えたのは本当にラッキーでした。

仕事内容を詳細に書くとソッコーで身バレするぐらいの特殊な仕事だったので若干ぼかしますが、ホテルのフロント+ミーティングプランナー+会議の運営サポート、これらすべてを担うような仕事。

ある超大手企業の業務委託だったため、委託契約が結ばれ続けるかぎり、数字に追われるわけでもなく、新規顧客を開拓しなきゃいけないわけでもない。
だから、というわけでは決してないんですが、職場の人たちがみんな優しく、とっても穏やかでした。

初日のこと。
私が通勤しやすいようにバスの時刻表をわざわざコピーして渡してくれたり、先輩といっしょに備品を運ぼうとすると、開口一番「手を挟まないように気をつけてね」と言ってくれたり。

この2つ、ほんと初日のことなのに、今でもすごくすごくよく覚えています。

この程度のこと、人として当たり前なのでは…と思う方も多いかもしれないですね。
でも私は、英会話学校時代のトラウマがあったので、こんなに穏やかな人しかいない職場があるなんて!!とちょっと本気で驚いたものです。

みんな、いつかは手のひらを返したように怖くなるのでは…と思ったりもしましたが、先輩たちの優しさは、退職するまで一度も変わりませんでした。

晴れてちゃんとした会社に潜り込めた私。
仕事は真面目にやって(当たり前)、それ以外の時間はほとんどすべて翻訳に充て、時には寝不足になりながら、なんとか好きな人たちとも会いながら、休みの日も朝からずっと課題に向き合い…
そんな自分に酔っていました。

このころ、本当に毎日が充実していたと思います。
翻訳の勉強もめちゃくちゃ楽しいし、目標もはっきりしてるし、会社では海外の人たちと関われるし、先輩たちは優しいし。そりゃあ、仕事なんで理不尽なことも辛いこともキツイこともめちゃくちゃありましたけども。

これだけ職場に恵まれていながら、「私は翻訳者になったらすぐに会社辞めてアメリカに行くんだ!!」う思いで突っ走っていたんですね。

いや…
書いてて思いますが、若いってほんと怖いですね。若いと言っても30過ぎててコレなんで、私が未熟だったとしか言いようがない。

そして、毎日を100%全力で駆け抜け、22ヶ月に渡るコースをすべて修了。

さあ、トライアルに1回で受かっていよいよ翻訳者デビューや!!!と意気込む私。

ところが、そう上手くはいかないのが人生ですね。

トライアルは不合格。
会社には結局、6年弱も勤め続けることになるのでした…。

続きはまた次回!
お読みくださりありがとうございました。

この記事が参加している募集