49冊目*鋼の自己肯定感 ~「最先端の研究結果×シリコンバレーの習慣」から開発された“二度と下がらない”方法(宮崎直子)
「自己肯定感」の上下運動はげしい方へ
それ、あげっぱなしにできますよ。
数年前から乱立していた「自己肯定感」という言葉。いや、その時に私が欲していた情報だったのかもしれない。
その自己肯定について、読めば読むほど謎に包まれる気分だった。そもそも、私は自己を否定されることはなかったように思っている。
両親たちは、本当に普通に褒めて伸ばして、叱って守ってくれたはずなのだ。強いていうならば「ぶきっちょ」と言われたことは多々あるが、私も大いに納得しているし、かなり手助けをされたものだ。
では、なぜこうも上がり下がりするのだろう。
そもそも私には自信がない。
自分を信じて、と言葉を分解したりしてなんとか奮い立たせてみるものの垂れた頭は上がらない。
これではダメだ、我が子だけでもと、そういう関連の書籍に書いてある通りの声かけや行動をとるもののうまくいかない。
本書を手にしたのは、「自己肯定感なんてくそくらえ!」.と投げ打ってから数年経った今だ。
がむしゃらではなく、一歩引いて読んでいたのも功を奏したのだろうか。じんわりと内容が入ってきたのだ。
自己肯定感を著書では、「ありのままの自分を無条件に受け入れて、愛するということ」だという。
そもそもなぜ、私は噂の「自己肯定感」迷子になったのか。ほぼそれを意識した人々は勘違いしているそうだ。似て非なるものたちにどうやら翻弄されていたのではないだろうか。
人のために、だとか、自分が何者か、だとか
ドツボに嵌ってしまった言葉たちがそこにあるではないか。
コンプレックスだらけの経歴書をみて何者にもなれなかったことを悔やみ、せめてと人のために生きようとしたものの何も反応がなかったり、想像と逆の反応をされたことで落ち込み二度と踏み入れなかった過去がある。それもたくさんだ。
私は私自身のありのままを見てきただろうか。
そして、ここ数年間、ありのままの子どもをきちんと見てきただろうか。
答えは、NOだ。
「ありのまま」だなんて、正直にいうと私にとっては難題中の難題だ。子どもについては「ありのままを愛そう」とすぐに実行、すぐ失敗、でも繰り返す!と踏ん張れそうなのだが、こと自分については気恥ずかしさが勝ってしまう。
いや、もう一人の自分が「所詮お前など…」と鼻で笑ってくるのだ。その正体がなんなのか。思い当たる節があるし、それが怒りだったと整理はついてきた。
あとは…このブレーキをかける相棒である自分にどの声かけをするべきかを考えていこう。もう一度、自己肯定感というものと過ごしてみようかと思った一冊だった。鋼になるまでには相当な年数を要するだろうけれど。