短編小説『ビルの隙間の打ち上げ花火』
やっと、小川の土手に着いた。
風景が一変した。
空が広がった。
日の名残りは、入道雲を紫色に染め、西の空から徐々に朱色濃く塗り重ねていた。
まだ手付かずの東の空は、見事な群青色をしていた。
纏わりついて来る熱気は、小川から漂ってくる澄まし汁に似た匂いと、草木の間からすり抜けてくる命を持った胞子を含んでいた。
私は、深呼吸をした。
人工的で淀んだ空気を入れ替えようとした。
生命をふんだんに含んだ空気は私を蘇らせた。
もう、あの町工場のある所へは、行かないようにしよう。
帰り道は、回り道をしないで、自分の住むマンションの前を通って帰ろう。
私は、思考までもが前向きになっていた。
香田美月の表情も明るくなったように見えた。
夕陽を受けた頬はピンク色を加えていた。
唇は、採れたてのイチゴの様な新鮮な赤色をしている。
周囲の風景に溶け込む浴衣の柄。
朝顔の柄が、水を与えられた直後のように瑞々しい。
私は見る、彼女の幼いころの面影。
同時に、娘のカンナの幼いころの面影を思い出して、重なった。
私は、なぜか若いころに戻りたくなった。
あの頃のように、溢れるような生命の躍動感を味わいたくなった。
遊園地の入り口を抜けた子供の様に、気持ちが高まった。
私は、それを無理やり押しとどめながら、花火の見える場所を探した。
それは、無機質な倉庫の様なビルの僅かな隙間であった。
私は昨年の夏、偶然に見つけていた。
そこに着くと、花火を待ち構えている人たちがいた。
70歳は優に超えているように見える品のいい老夫婦とベビーカーに赤ちゃんを載せている若い夫婦の二組がいた。
私たちが、その横に立つと、葬式の時に面識のない遠い親戚に挨拶するように、それぞれが軽く会釈をした。
私たちは、みな押し黙ったまま夕闇が迫ったビルの隙間を見つめていた。
若い夫婦連れの赤ちゃんも、ベビーカーの中で大人しく眠っている。
西の空も、徐々に群青色を濃くしていった。
無機質なビルは、黒い影となった。
その隙間に、突然一輪の蓮華の花の様な花火が音もなしに上がった。
それは、あまりにも小さくて頼りなげだった。
また元の闇に戻った。
暫くずっと、そのままだった。
観ている誰もが、先程の頼りなげな花火は、幻だったのではないかと思い始めた時、闇が切り裂かれた。
次から、次へと花火が打ち上げられた。
ビルの間から見る花火は、ドアの隙間から観る映画の様で返って想像力を掻き立てられる。
その意味では、両脇の無機質なビルの影は、大きな役割を持っている。