宮本武蔵、参上!(『宮本武蔵はこう戦った』より)
「ようやく、宮本武蔵様が参られたようです」
付き人の声でやっと我に返った。今までに生きてきたことが走馬灯のように現れて、嫌な予感がよぎったが、あくまで冷静を装った。
小次郎は目を開けた。傾きかけた陽が海面を銀鱗のように光り輝き、武蔵の乗った小舟が影絵のように黒く塗りつぶされていた。
「時間のわざと遅れて、相手を焦らせようとしたり、陽を背に戦おうとしたり、何と浅はかなものよ。全てはこの小次郎にとってはお見通しじゃ」
小次郎は丹田に気を入れ、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
武蔵は大きく息を吐き出し、腹を据えた。きつく締めすぎた鉢巻のせいで、頭が痛むので、締め直した。船頭がにわか作りの桟橋に小舟を着けようとしていた。武蔵は、
「直接、浜へ乗り入れよ」
試合場の近くの浜辺を指さした。船頭は、またも櫂を器用にさばいて小舟の向きを変えた。
武蔵は、櫂の木刀を提げ、舳先に仁王立ちした。その姿は、武蔵を一層大きく見せ、傾きかけた陽の騒めき立った海面の反射を受け、輝いているように見えた。
小舟を波打ち際まで乗り入れると、荒波が磯にぶち当たる飛沫のように、武蔵は両足で大きく飛び上がった。そして、波が引いて間もない砂の上に降り立った。両足は四股を踏むように折り、再び飛び上がろうとするように腰をためて思いっきり大地を踏みしめた。砂が重く軋む音を立て、足が砂にめり込んだ。
武蔵は、めり込ませた足の感覚を確かめた。地の底からはい出るように、上体を起こしながら、
「宮本武蔵参上、佐々木小次郎殿、立ち会われよ」
大音響で吠えた。
今まで、冷静を装っていた小次郎の顔が見る間に赤くなった。それは、仁王像がまさに動き出さんばかりであった。
「恐れをなし、定刻に来ることも出来ず。来たと思ったら、陽を背に向けるという、姑息な手を使う小心者よ。一刀のもとに切り伏せてやる」
小次郎は、もはやその場で待ち受けるにはいかない。体が自然に、きれいに掃き清め、四方に紅白の幕を張り巡らされている試合場から、武蔵のいる浜辺に向かってゆっくりと歩き出していた。歩きながら、肩から下げている愛刀備前長光を抜きはらった。そして何気なく、平らな試合場では良いが、凹凸のある浜辺では鞘が気になるので、肩から外して作法通りにゆっくりと砂の上に置いた。
武蔵は、ゆっくりとこちらに向かって歩き出した小次郎を見ていた。抜きはらった異様に長い刀が、傾きかけている陽の光を帯びて血塗られたように赤い光を放った。
そして、その刀を片手に持ち、握り替え、もう片方の手で黒塗りの鞘を外し、作法に乗っ取り片膝をつき丁寧に鞘を置いたのを見た。
主人を失った鞘は、取り残され、無用の長物となった。黒塗りの鞘は、魂を失い砂の上に横たわる死んだ蛇の死骸のようであった。それは、ただの物に過ぎなくなった。
砂の上に置かれた鞘を見て、あの巣を取り壊され、地に落された子燕たちを思い出した。その子たちも、親を失って取り残された。小次郎は、冷血な男である。直感でその鞘は、もとに戻ることがなく、そのまま置かれたままになるような気がした。同時に、その鞘の鐺が燕を斬った際に出来た地面に付けた半円の跡が、思い起こされた。
武蔵は、小次郎が燕返しを使うことを確信した。平らな場所では、腰をひねる際に鞘が地面を傷つける程度で済むが、浜辺のような小さな起伏があるところでは、燕返しで体を反転させる際に鞘が砂に引っかかり、技を出すのに支障をきたす恐れがあるからである。小次郎はそれを嫌っていると見たのである。
武蔵は、最初から小次郎が燕返しと使うと読んでいた。その為に、対策を練りに練っていたのである。間違いなく小次郎は燕返しを使う。武蔵は確信した。