共感の極論

共感というものは存在しないような気がしてきた
自分の体験をもとに、言うなれば自分の中での統計みたいなものと見比べて、あくまで自分がこれまでに感じた感覚とか感情を相手の行動や言葉などから一方的に読み取り、当てはめて相手の気持ちを推し量ることになる訳で、どんどん深化していく毎にいつのまにか相手の存在が小さくなってしまい反比例するように自己と肥大化を引き起こしてしまうので、結局は自己中心的な見地から相手の気持ちだと思うものを選んでいくしかない
相手の行動が引き金になって自分の中でその運動量とか熱量とかもうすこし大きな枠組みでいえばエネルギーが反射し合って一人勝手に響いているだけだ
共感ということばをあてるのが適当なのか
自響という言葉の方が適切なのかもしれない
あるかはわからないけれど
共有するプロセスが足りていないから共感にまで昇華させられていないのかもしれない
今は自響で止まっている
共感性が高いとか感受性豊かとか言われるものはつまるところ自分の中にそれらのことを取り込みあくまで自分が体験したならばという立場からみていて判断するしかない
実際にはそれ以外に方法がないから仕方ないのだけれど
主観を取り除いて相手と同一化するなんて無理な話だし
だからどれだけ相手のことを自分ごととして考えられるかという矢印がぶつかり合う思考過程を持った人間は究極に言えば自己中心的かもしれない
どんどん内なる世界の自分に実際自身に起こる体験以外のことを追体験とか仮体験させる力でそれでもって内なる世界をより強固で深いものにして経験を飲み込み膨れていく
そう仮定するなら経験値が溜まりやすい がくしゅうそうち持ちのポケモンみたいなものだ
戦闘経験をせずともイメージで経験しているからオッケーですという仕組みなのかもしれないポケモンの成長は一方向にしかベクトルが向いていないから安心かもしれないけれど、人間のレベル上げはそんなわかりやすいものではなくもっと複雑で多元の方向性を持っているから、具体的にいうと捉え方次第なわけでそれによって強化されていく体験経験値の場所が変わってくる
感情ひとつ取っても大きく喜怒哀楽の四つに分かれていてもちろんそのほかの感情も持っていてこの中だけでも数えきれないほどのパラメータが存在している
それらひとつひとつが1匹のポケモンみたいに独立していて各個レベルが上がっていく訳だから、しかも下がったりもするし無くなったりとかそこら辺も色々あって、スーパーコンピュータでも計算できないほど複雑で何兆とかそれよりももっと膨大な通り数の人格予想をしないといけないことになる
外見がおんなじ人がいないことよりももっと当たり前なことでだれ1人内面においても同じ人はいない、オンリーの世界

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