メメント・モリ 初めての彼女のこと
メメント・モリとは、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬときを忘れるな」という警句。
◇
Kさんとの出逢いは、自分自身が何たるかを漂わせ始めた頃まで、さかのぼる・・・
その春、高校2年生になったぼくは、1学年普通科6クラスのD組になった。ぼくはだんだんと難しくなっていく授業、特に数学についていけなくなっていた。
それよりも今はなき鉄路の通学列車で新たに一緒になった下級生に注目されるようになり、舞い上がっていた。
今思えば、この半生のうちで最も幸せな時の一つだった。
その中にSさんという子がいて、正直云うと、ぼくはその子を気に入っていた。
山岳部にも1年生のKさんという女の子が入部し、その子が頻繁に匿名の複数のラブレターを預かってきてくれた。KさんとSさんは同じ駅からの登校だったので、ぼくは勝手にその頻繁にくれる手紙はSさんだと、勝手に信じていたくらい、ぼくはバカに舞い上がっていた。
そんなやりとりは、古い校舎の前に整列している大きな白樺たちが緑輝く夏の始め頃まで続いた。
その手紙のやりとりをしているうちに、その匿名の相手は、実は預かってきているというKさん本人ではないかと思うようになってきて、ある初夏の山行後に本人に確認すると、その予想はあたってしまった。その質問への答えは、その帰り際、行き場のないような笑顔だった。
いつもそのラブレターの匿名ペンネームが"キャッツアイ"だったということも、まるでうなづける。
そして、手書きではなく、ワープロ文字だったことも、やっぱりうなづける。
自分で思っていたSさんとは違っても、やりとりの中味はKさんだったわけだから、ぼくの気持ちとしては当たり前に引けなくなってしまっていたわけだった。
ぼくが高校2年生の初夏、このKさんが、ぼくにとっての"憧れの初めての彼女"になってくれた。
そのKさんを相手に初めて女の子と、そう確か、前期の期末テストの終わった暑い日の午後、当時まだ町にあった映画館へと行った。今でも覚えているけれど、映画は「プラトーン」で、緊張していたぼくは受付から館内へと入るドアと外へ出る非常口ドアを間違ってしまい、恥をかいたものだった。初めての女の子とのデートであり、隣の席が気になって仕方なく、映画の中味は何が何だかわからなかった。そのくらい、ぼくは"デート"というものに緊張していた。
デートで見る映画の類ではなかったけれど…
ぼくは部活だけの山行に飽き足らず、役場職員が中心になっていた小さな社会人山岳会にも入って、お世話になり始めた頃だった。
その夏休みには、その1年生のKさんも含めて前年と同様コース、大雪山天人峡クワゥンナイ川から遙かなる山であるトムラウシ山、そして黒岳までの夏山合宿だった。
ぼくは、山での体力的にも多少自信がついていたし、コース2回目のぼくは余裕もあり、初めて広大な大雪山の偉容さと素晴らしさをすみずみまで堪能した。主な高山植物もそのときに覚え、今に至っている。
今でも感心するけれど、Kさんは隊から一度も遅れることなく、大雪山の縦走を走破した。恩師先生の内でも、あの縦走レベルをこなした女子生徒は未だにいないのではないだろうか、と思う。
Kさんとは、その夏休み、自転車に2人乗りをしてサロマ湖やオホーツク海の砂浜へ行ったりした。砂浜もテトラポットたちもみな、じりじりと北の夏の暑い陽差しを一身に受け、やはりじりじり灼けていた。そして、よくもまあ、往復20数kmも、横座りの彼女を乗せて重たいママチャリのペダルをこいだものだった。
その夏休みには、資材置き場でアルバイトをして、恥ずかしく一人で小さなファンシーショップへ行って数千円のネックレスを買った。ぼくは、"初めての彼女"にはネックレスをプレゼントしたかったのだ。自分で"彼女"の髪の後れ毛と首の肌に触れながら付けてあげたいという願望が、当時の少年のぼくにはあった。
その資材置き場のバイトの暑い昼休み中に、雑誌で「植村直己物語」が映画制作されていることを知った。
夏の気だるい空気と秋にめくるめく瞬間を伺っている季節であった。遠ざかる若者たちの熱のこもった祭りの余韻が、夜の古い校舎を優しく包んでいた。階段下に小さくて汚く、灯油の匂いを染みた馴染みの空間、その山岳部の部室も同じように包まれていた。
この頃、校内で誰かが弾くジョージ・ウィンストンの「あこがれ・愛」のピアノの旋律がよく部室に聞こえていた。
夕暮れは早くなり、下校時間にはヒンヤリとした空気が漂い始めた秋になると、街の小さな祭りの夜店を、同級生たちや人目を気にしながら、Kさんと歩いたものだった。
ぼくはその秋に先生から生徒会執行部への入会を勧められ、部活の顧問だった先生も快く勧めてくれたので引き受けていた。
それから、ぼくの放課後は部活と生徒会の両立となってしまい、とても忙しいものになっていった。どうしても部活のトレーニングをみんなで済ませてから生徒会の方へ行き、帰りが遅いため、口数少ないKさんと一緒に帰ることも次第になくなっていった。新しく出逢う生徒会の人たちと仲良くなっていった。
それでも京都、東京への修学旅行でのおみやげを一杯買ってきたり、Kさんはクリスマスには手のひらに重たいくらいのイニシャル入りのマフラーを編んでくれたりもした。
Kさんが「これ、いいよう」と云う安全地帯のカセットテープを、時間のままに、よく部屋で甘く聴いていた。
雪も舞うようになり、いつもの街並み、がんぼう岩までが白くなり、吐く息までも白い季節となった。駅から高校までの徒歩通学20分が、冷え込む寒さと、足元にツライ季節となっていった。-10度を下回る朝には、その通学途中で橋を渡る川から"気あらし"が立っていた。教室では公務補さんが用意してくださる石炭ストーブが勢いよく頑張ってくれていて、生徒たちを迎えてくれた。
そんな頃、だんだんとKさんとの2人を自分でどうしていいのかわからずとまどい、休日に会っても言葉の欠片を探すようになり、Kさんからぼくに、「わたしは鳥かごだったのですね。自由に空を飛んでください」と云う言葉を織り交ぜた、決して綺麗とは云えない手書きの別れの手紙が渡された。
ぼくは、帰って自分の部屋で一人でどうしようもできない自分がもっと大人になりたいと心から泣いた。何に行き詰まり、何をしたいのか、何が足りなかったのか、若いぼくたちにはわからなかった。
部活上での冬の体力維持にと、85kmの大会参加をめざしてクロカンスキーの練習も本格化した頃だった。
淡いぼたん雪に変わり、アスファルトも顔を出し埃だらけの道路になった頃、ぼくは高校3年生に、Kさんは2年生になった。
山岳部では、「今年こそ、あの北○高校を負かす!」と、部長になったぼくは一人密かに情熱を燃やしていた。あのソツがない優秀なパーティに勝ちたかったから、ぼくは顧問先生に直談判までしてパーティのメンバーを提案させていただいた。同じ苦楽を共にしてきた同級生の仲間たちには本当に申し訳なかったが、後輩を2人登用させてもらった。
女子部員不足で心配していた女子パーティの欠員も、生徒会で親しい仲間だったOさんに依頼して補った。当時の我が高校山岳部は、地区大会での優勝というものを一度も経験していなかった。
ぼくたちには原生濃い、その知床羅臼岳で開催された大会で、結果、アベック優勝を飾ることができたのだけれど、BC(ベースキャンプ)ではKさんに煮炊き中のお湯をかけられた一幕もあった。内心、格好良く表彰式で男女リーダー同士、握手をしたかったけれど、それは叶わなかった。それは、いつものぼくの些細な無神経な言動が原因だったし、その頃の部内の男女関係も、また複雑だった。その要因を作っていたのは、まぎれもない、この優柔不断なぼくもその一人であったわけだけれども・・・。
Kさんは、高校卒業後、高校時代からの不和な人間関係を独り抱えつつ地元の優秀な金融機関に勤めた。くるまは、ホンダの「インテグラ」を、いつも気に入っていた。大学へ進んでいたぼくは帰省して機会があうと、Kさんにドライブへ連れて行ってもらったりした。相変わらずあまり会話のない中でも、Kさんはぼくを楽しく言葉でからかってくれるようにもなってもいた。不器用なKさんも、町の夜の街などで出会う心ある大人の人たちにも慣れ、可愛がられてきたようだった。
ぼくが社会人になっても、故郷近郊で働いているKさんを中心として、ぼくたち仲間は、よく集った。お盆だったり、正月だったり、いつも酒を飲み、ぼくたち仲間の絆は男女というものを越えて、年齢と共に強くなっていったと思う。
当時、煙草で遊ぶKさんに、まだ煙草で遊ばなかったぼくは「オンナのくせに!ダメだよう」と、えばっていたりもしたが、その後、ぼくも煙草を手放せなくなった頃には、それは逆に愉快な種として、からかわれた。
そうして、ぼくたち仲間は、結婚したり、独身のままでいたり、人生につまづいたり、社会でくじけたりとしながらも、毎年数回は、当たり前のように昔の頃に戻って親交を温めてきた。ぼくも幾度、町で飲んで朝まで過ごし、ぼくの職場まで車を飛ばして出勤しただろう。ときには、Kさんを含めた仲間たちがうちにも飲みに集い、大掃除までしてくれたりもした。
Kさんが独りで暮らす家は、集う際のぼくたちの"格好のたまり場"にもなっていたけれど、正直に云うと、Kさんの私生活というものを、ぼくたち仲間もあまりよく知らなかった、と云わざるを得ない。生い立ちや家庭環境も含めて、訊けるような雰囲気ではない感じは、ぼくもずっとしていた。
そのことは、一番そばに暮らしていた同性で仲良しで親身にしていたYさんも、そうであったろう。ぼくたちも無理に知ろうともしなかったし、彼女も別段に転職やらお金のこと、異性のことについては話さなかった。時折、噂話で聞こえてくる程度のことは、あんまり気にも止めることでもなかったけれど、ぼくたちが一番に心配していたのは、何故にそんなにKさんが平日早朝の新聞配達から2つも3つも、それも危険も伴う木材加工場などで毎日を働かなければならなかったのか?という、その状況と、Kさんへの身体へのいたわりだった。Kさんはそれさえ、唯一親しかったぼくたちに一つも漏らしては、くれなかった。
2002年2月、ぼくの札幌転勤が本格的に内で決まっていた頃、深夜に携帯電話が鳴った。小さく軽い電話口の向こうのKさんは酔っているのか、その前の年の秋に迎えた誕生日に贈った本ののお礼と、そして今までにない開放的な心地で、かつてないほど珍しく一方的に話をしてくれた。パソコンがなかったKさんは、ぼくのホームペ-ジをいつか見てみたいんだよねー、と幾度と希望してくれていた・・・
それらが、ぼくにとってKさんときちんと話をした、最期になるとは知らずに・・・
今、その言葉たちを想えば、Kさんが背負っていた孤独と経済的な負担からの生活に一筋の光が見えた頃だったのだろう、と思うのです。
(以下、原文のまま)
弔辞 Kへ
はじめに、部活の先輩として、あなたに最後の言葉を捧げます。
君は、山ではとても芯の強い優秀な部員でしたね。 おそらく北海道でも、当時トップクラスの体力を持っていたと思います。 去年の夏、大雪山・愛山渓で故広澤先生と故後藤君の追悼登山のときには、当日の早朝にやってきてくれましたね。 そして、ぼくが率いる若い後輩たちより一番に空に向かい、永山岳の頂上に辿りついていましたね。 今思えば、君が大好きだった広澤先生の所へ早く行きたかったのでしょうか。
ぼくは部活の先輩として君を少し叱らねばなりません。 近くに住む大切なお母さんに、一人暮らしの生活のこと、ぼくたち友人関係のこと、何も話していなかったようですね。 それを突然こんな事態になってから、知りました。 それが、どんなにお母さんを悲しませていることの一つか、わかりますか? 優しくて意地のある君のことだから、きっと小さい頃からお母さんを心配させたくなかったのでしょうね。 何一つ若者らしい贅沢な遊びもせずに、質素に生活をしていましたものね。 それでも、どうして、もっといろんなことをお母さんに伝えていなかったのですか? そのせいで君を大切にしていたたくさんの人たちや、かわいがっていた黒ネコの「にゃーすけ」に、とても迷惑もかけたのですよ。
あなたと高校時代にお付き合いした最初の彼氏として、君に最後のラブレターを贈ります。
気持ちを伝えるのがとても不器用で、それでもずっと今まで信頼してくれた一途な人でしたね。
あの頃、2人で夏休みに海まで自転車で行ったこと、夜のがんぼう岩から街を眺めたこと、部室で何も話もせずに、ただただ時間を過ごしていましたね。 もう15年も前の話ですね。
あなたが最後にぼくにくれたお別れの手紙には、へたくそな字でこう書いてありましたね。 「私はあなたにとって鳥かごだったのですね。自由に空を飛んでください」って。
そして、つい最近までも「30にもなって泣き言を言える相手もいないなんて情けないね」なんてグチも、携帯メールで送ってきましたね。
先月には(Kさんが好きだったスターダストレビューの)旭川チケットがあるからと、コンサートにも誘ってくれましたよね。 何一つぼくは君の気持ちに添えないでいたから、そしてぼくはこの春から札幌に行ってしまったから、ぼくはとても気持ちが残っていて、そして君はとてもさみしかったのかなと思います。
こないだ夜行の特急で君の待つ北見の病院に駆けつけたときには、君はどこにいるの?って思うほど、ぼくは悲しく、つらかったよ。
あの時、春の冷たい雪降る暗い未明だったけれど、集中治療室で2人きりになって、 手を握ってあげていたこと、わかりましたか? 2人だけの想い出話を、君の傷ついていない左耳にしたけれど、ちゃんと聞こえていましたか?
届いていましたか?
待っていてくれたのですか?
うれしかったですか?
安心しましたか?
痛みはとれましたか?
あなたほど、こんなぼくを不器用に一途に愛し、気持ちをぶつけてくれた人はいなかった。
それは、ちゃんとぼくにも伝わっています。
どうか君の大好きなお父さんに連れられて、心安らかに、もう葛藤などしないで、素直な自分になって、今度は明るく、みんなに愛されていることを信じて、歩いていってください。
あなたに巡り会えて、ぼくは幸せ者でした。 ありがとう。
さようなら。
平成14年(2002年) 4月25日
この春はやけにコブシの花が咲いています。
お母さんが
「みんなに手を合わせてもらう度、安らかになっていくみたい」
と言いました。
最期の棺に、この一週間、祈りのように聴いていた想い出の安全地帯の曲をダビングしたMDを入れ添えさせていただきました。
早朝にたくさんの雨を降らせた空は、昼下がりには春の陽射しとソーダ色な青い空を見せ、一方で彼女の棺は小さくて暗闇の窯へとゆっくりと押されて入れられてゆきました。
悲しみの涙が、次から次へとあふれでました。
先週に病院で彼女の状況を見たショックで思い切り泣けなかった行き場のない気持ちではなく、涙はやはり大切なときにでるもののようです。
彼女は、白くなったり黒くなったりする煙と共に、春の空へ昇っていきました。
ぼくには、その熱気のゆらぎが笑っているかのように見えました。
初めて新入生として彼女に出会った同じ春の光景を想い出しました。
彼女は、大好きだったお父さんと一緒になれたようですし、身勝手に考えると、お兄さんがしっかりして先々週にお母さんのもとに帰ってきたから、彼女に与えられた役目は終わったのかなあ、とも思いました。
彼女は、最初からそういう運命の人だったのかなあ、と思いました。
だから、彼女の手相の生命線が本当に短かったたのかなあと思いました。
初めての彼女- 故K和恵さん
平成14年4月23日逝去 享年31才
最後の棺に入れたMDの曲。