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レンズを貫通するような情念の発露に君は出会ったことはあるか?
写真を撮っていると、時に思いがレンズを貫通することがある。写真を撮ることを超えて、いつの間にかその人のことを考えている。そういう魂の交流が僕は好きだ。実際に作品を取りにいく時は、イメージを共有したり他愛もない話やクリエイティブの対話の方が多い。
レンズを貫通する瞬間は作品を撮るときに限らず、適当に街をふらついた時にも訪れることがある。最近はどこにも行く機会がないし、移動における密を避けるという意味合いでもサイクリングにいくことが多い。と言っても大体、土手だ。土手はなんだか心が落ち着く。人工的な建造物が目に入ることはないし、忙しなく動く人間の姿はない。とはいうものの誰かが整備したであろう人工芝や花壇に目をやるとなんて素朴な様だろうと思う。ここの時間の流れは作為的ではない、と思う。(海や山まで行けば多大なインスピレーションを捉えられると思うが物理的な意味合いで毎日いくのは徒労だろう)
そんな作為的でない空間に身を委ねながら走るのだが、そこで湧き上がるさまざなイメージと目の前にある情景が重なり合う瞬間がある。持ち運びが簡単なフィルムカメラを手元から出し、徐にシャッターを切る。情景とイメージが重なったその瞬間、いっさいのものが一体となって溶け合うような感覚を感じる。これは音楽を作っている時にも通底するものだ。
全ての情動、情念が貫通し脳内のイメージと目の前の風景が一体となる。この世界と自分の意思が一体となるような気がする。思いもがけない言葉やメロディーが浮かび上がった瞬間、わけもなく目頭が熱くなる。これは自意識から生まれる感傷的な心情ではない。突如現れるレンズを貫通するような情念の発露なのだ。
そしてその情念の発露は有限なのだ。インスピレーションをすり減らした先の僕の脳内はその心情を発露することすらできない。だから今日も走り、様々な作品に触れ、インスピレーションを捉えようとして、もがく。ただ、未だ自分のクリエイティビティーに限界を感じることはないし、むしろ創作意欲は湧き上がってくる一方だ。貫通する思いの巡り合わせを楽しみに心を踊らせつつ、新作に取り掛かる。この貫通する思いが読者にも届くことを願って。
okkaaa
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