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不快感に浸っていてもよかった
2024年10月、とあるインドの覚者のもとで瞑想を通じて悟りの意識を体験するというプログラムに参加しました。
プログラムのなかで参加者は一同にしゃべることをストップさせ、自分の内側にいるという時間がもたらされました。普段から口数が多い方ではない私は、この時間がじつはとても快適だということに気づき、話さない自分、内側に居続ける自分が初めて完全に許されるような体験となりました。いつの間にか社会的にコミュニケーションをとることが自然とできるようになったけれど、そこまで話すことに快楽を感じていなかった自分に気づいた、というようなひと時でした。頑張って話してきたんだな、と。
それと同時に、自分が自分と定義しているものがより明瞭に感じることができていきました。その話はまたいずれ。今日はプログラムのなかにあった「朝陽を観る」という時間での気づきをひとつシェアしたいと思います。
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まだ月の光しかない暗闇の早朝、5時30にプログラムは始まります。そしてヨガやマントラなど、その日のプロセスのテーマに合わせて身体を起こし始め、その後、朝陽がもうすぐのぼるタイミングであろう時間に外に出て散歩しながら、日の出が見えそうな場所へ移動。ヨガマットなど敷いて、各々自由に座ります。もちろん終始、会話は禁止されているので誰も話しません。ただ、そこに座り、周囲の自然を観察し、感じているだけの時間。
自然のなかは驚くほど学びが溢れていました。風によって動きが生まれ、音が生まれ、私たちの感覚を味わい深いものにする。ときに目を閉じて、視覚的な刺激を遮断して、他の感覚器に意識を集めてみる。ときに自分の内側に湧き起こる感覚に耳を澄ませる。全てのエネルギーを気づきに向けていくような時間。五感以上のすべてを使って行う「観察」という時間。ときに芝生の上に素足をのせて味わってみる。すべてある豊かさに扉を開くのは自分自身であること。すでに大いなる循環のなかにいることをじわじわと感じていくひと時。ただただ、その瞬間を味わうことのすごさにときどき圧倒されながら感覚の世界に没頭していました。
話がまた逸れました。
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7時半すぎると私たちはプログラムが開催されているホテルの朝食会場へ移動。1日のなかで唯一、話すことが許されているのが朝食時間ということもあり、ここぞとばかりおしゃべりを楽しみます。そこで、仲間たちが口を揃えていう感想に驚きました。「朝陽が見れず、残念だったね〜。もうちょっとで見れる!と思ったら結局、陰っちゃった」と。誰もがそうそう!と悔しがっている。私は心のなかで「あ、朝陽がきれいに観れるかなんてまったく意識していなかったな」と思いながら、長らく繰り返してきた私のパターンに気づいていきます。
じわじわと段階的に気づいていったのは、「美しい朝陽を待つこと」が正解のように位置づけながら、私は外の世界ではその正解に合わせながら生きてきたということ。朝陽を観ながら話すことが許されていた環境であれば、きっと安易に私は周囲に同調していたでしょう。「ほんとだ。朝陽が観れなくて残念だね〜」と。そして自分が感じたままの世界を表現しないようにしてきたことも。ただそれさえ言葉にすると、どこか感じているままを伝えられないような気もして何かモヤっとすること。そこに見えない壁があるような気がしました。
私たち人間には生存本能があり、進化の過程において理性や論理的思考を司る前頭前野を発達させて生き抜いてきました。言葉を使いながら、脳内でさまざまな思考を巡らせ、整理整頓してから口にしていきます。いつの頃からか、私たちは感じる前に、その意味から入るようになりました。子どもの頃は、言葉がないから感じたことをただただ感じることができていたのに。私たちは成長とともに、感覚の世界を後回しにしてきたのです。
長らく私は、その感覚の世界と自分の表現の世界の間には、見えない透明のヴェールのような壁があると感じていました。それは、私が幼少期に海外で育ち、言葉の通じない環境では脳内で自然と言語変換していたことや、例えそれが日本語だったとしても、間違えることの恐れから話す前に「口にしていいことか」をジャッジする癖などがあるのだと感じていました。けれど、その透明の壁は、私自身の生存本能からくる私。幻の私、分離した私だったのです。
その分離した私がいる限り、私は目の前のことに感覚をすべて明け渡すことをしません。あらゆることに意味や解釈を求めるかもしれません。あらゆることに、正しいことか・やるべきことか、など理由を求めるかもしれません。生存本能が、私たちを安全な場所にいるように指令を送るかもしれません。曖昧にただある感覚の世界に、要らぬレッテルや分類などを始めるかもしれません。ジャッジし続ける幻の私が、不快感から逃げなくてはいけない、不快や不幸は避けなくてはいけない!と警鐘を鳴らし続けていたのです。私を感覚の世界に没頭させることから回避させ、偽りの安全というコンフォートゾーンのなかで、快も不快もただただ存在し、それを体験する、という感覚の世界から遠ざけていたのでした。
感覚の世界には「うまくいった」や「失敗した」などというレッテルは貼らなくていいにもかかわらず、これまで自分の感覚の世界を容易く明け渡し、外の世界にある常識に自分を合わせにいっていたのです。朝陽が観れることは別に成功ではない。それを期待した人にとっては成功と定義されるのかもしれない。けれど曇っていようが、雨が降っていようが、ただその瞬間を豊かだと感じていたのであれば、その自分をただ許していいのだ、と。そこには、心のなかでモヤっとした違和感を感じていても、周りの人たちと調和を保つためにそれを見ないふりをし、蓋をしてきた自分がいました。
違和感、寂しさ、悲しさ、惨めさ、孤独など、不快感のある感覚が湧いたとしたら、それをなくすためには徹底的に解決策を講じてきた人生でした。生き抜くために頑張ってきた。気晴らしは上手にできるし、前向きに思考を変換することもできる。けれど、この気づきのプロセスで感じたのは、その解決策を講じる私は、分離した私だったということ。「不快感・違和感を体験している私」を自分の人生に許さず、逃避してきただけだった。それも豊かさのひとつだと捉えず、悪いことだと判断して逃げてきた。そんな分離の世界では、常に「良いこと」「悪いこと」という常に相反した二元論に支配され、自らを常にジャッジし続けるという苦しさしかありません。
そうか。私は、ただ、不快感に浸っていてもよかったのか、と。
不快感などから逃げ続けてきた私にとって、それを味わってていいよ、という許しは大きなものでした。違和感や不快感を感じたら、解消しようとせず、逃げることもせず、観察し続ける。逆に快適な感覚や快楽のような感覚があっても、そこに浸らず、没頭せず、求め続けようとせず、ただ観察し続ける。それを続けることで、私は自分のなかにあった「分離した私」がくっきりと明瞭に感じるようになっていきました。分離した私が湧き起こるとき、私はただそれを観続ける。次第に弱くなり、消失していくまで観察していきます。最初はちょっと根気のいる観察でしたが、慣れると意外と楽しい。
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潜在意識をクリアリングするとき、いちばん大切なのは体感を伴って感じられているか。全身全霊で腑に落ちることができているか、ということです。体験なくしては、私たちは意識の変容を深めていくことは難しいと感じています。それは豊かさを受け取るという、とても基本的な循環のひとつを自分自身に許せるか、ということにも大きく繋がります。次回は循環のなかで生きることについて触れていけたらと思います。
話が行ったり来たり、うまくまとまらなかった、と分離の私がジャッジしていますが、このまま公開します(笑)
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これからの時代を軽やかに生きるには、自分の体感を取り戻すことは至上命題だと感じています。そこで今月はQUANTAにてエネルギーワークのグループセッションも開催します。アーユルヴェーダ専門家であり、セラピスト・ヒーラーでもあるMOTOKOさん、イールドやCS60の施術家Akkoさん、そして私の3名にで皆さんの変容を伴走します。怒っても、笑っても、泣いても、寝ても・・・何してもいい場です。ゆっくりと自分自身の感覚に浸る。そんなひと時をぜひ味わってみてください。感覚の世界に浸れば浸るほど、私たちは分離の意識から離れ、じつは既に大いなる豊かさの循環のなかで生きていることに気づいていきます。たくさんの愛を自分に許していくことができます。必要な豊かさを自分の人生に招き入れることができます。思考に支配された分離の世界ではなく、大いなる循環のなかで共に生きていきませんか。
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