No.603 もう駄目と思う日もあり雲の峰こころの勇む日よ我にあれ
「もう、我は駄目だと思ふ時もある やってゆかうといふ時もある」
と賛の入った中川一政画伯の虎の絵の前で愛猫マミヲを抱く向田邦子の写真がカバーとなった『向田邦子ふたたび』(文春文庫、1986年8月)を読みました。
お母さん然とした邦子の表情と、抱かれて恍惚としたマミヲの眼差しの写真は、1981年(昭和56年)3月2日に撮影されたものでした。その僅か5カ月後の8月22日に生きて帰らぬ人になろうとは、夢にも思いませんでした。
その『向田邦子ふたたび』には、彼女が敬愛する中川一政氏のアトリエで、凛とした一輪の花のような美しさをたたえた邦子が、氏と一緒に椅子に腰かけている写真もありました。畏敬する人物の隣で聊か緊張の面持ちです。
中川氏は「向田さんのこと」と題した文章を寄せていました。彼女との最後となった約束の言葉が、胸を打ちます。
「シルクロードへゆく前に一寸ひまができたので台湾へ行ってくるからと遊びに来た。シルクロードは便所のないような辺鄙なところの旅だと云った。
私はこうもり傘を持って行って人が来たらぐるぐる回していればよいとからかった。
それが8月11日であった。
台湾から帰ったらその翌日、私は奈良の工房で陶器をつくりにゆくことになっていた。皆と一緒につれていってくれと云うのである。台湾から帰った翌日である。帰ってすぐでは無理だろうと云ったら、『私は学校では運動選手だったのよ』と目を輝かせた。
それが向田さんを見た最後であった。」
向田邦子は、1980年、『思い出トランプ』収録の『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』で第83回直木賞を受賞しました。作家としてこれからという、翌1981年8月22日、取材旅行中の台湾で航空機墜落事故に遭い永眠しました。死への旅立ちは51歳。短くも分厚い人生を送った才媛だったと私は思います。
その事故の現場、台湾へ遺体確認と引き取りに行った弟・向田保雄の著『姉貴の尻尾―向田邦子の思い出 』(講談社)には、遺体確認までの生々しい実話・実録もあり、胸の詰まる思いにさせられますが、肉親であり姉弟なればこその視点があって、姉・邦子を知る得難いお薦めの1冊です。
話が逸れてしまったのをお気づきの方も多い事でしょう。私は、今年になって、特に何事に対しても意欲阻喪したり、集中力が続かなかったり、言葉がすぐに浮かんでこなくなったり、考えがまとまらなかったり、いたずらに冗長なだけの文をものするようになりました。
毎日続けているnoteも、ギリなんとか凌いでいるありさまで、それこそ、まさに、
「もう、我は駄目だと思う時もある」
「やってゆこうと勇む時もある」
という気持ちの波が不定期に寄せては返すように心の中を漂うのです。
「何も毎日にこだわる必要なんてないではないか、書ける時に書けばよいのだ」
という思いも無くはないのですが、どこまで行けるのか、そんな自分に興味もあるのです。
「限界は、自分が決める」
と言いますものね。そんなささやかな悩みに、日々苛まれながら生きているのです。
そんな時に、思いがけず頂戴する心あるコメントに、お尻を叩かれ、考えさせられ、励まされています。
「一人ではないんだ」
という嬉しい気持ちになり、心の栄養にさせていただいています。noteの筆者・読者に心よりお礼申し上げます。