私は何者か、30
朝、前を走るワーゲンパサートのリアウインドーの上を、雲が驚くほどの速さで滑るように横切ってゆくのを見た。
あまりに速いので、私に何か知らせたいことでもあるのかと、自分の車のサイドミラーから空を覗いた。
啓示か。無神論者ではあるが。
誰が何を知らせるのか。
サイドミラーのなかの空は蒼く澄んで、雲は白く、細く、素早く走り、冬の女王をせき立てる。
そういえば、フェニキアの航海士に昨夜、約束の印を渡したことか。
疲れた母親の肩の上をそっと撫でてやれと。
どこかの山の頂近く、高く積まれたケルンのひとつに憩む一匹の蝶の羽が乾くのをあとしばらく待てと。
何者にもなれず、ましてや何者でもない。
振り向き様に見てはいけないものを見てしまったかのように、畏れを抱きながら生きる。
日々幾ばくかを稼ぎ、そのために嘘にまみれた人混みに呑まれ、それでも、夕方には何とか自分へと戻って来られる。まだ、生きている。
誰も見たことのない小石を持っているのだ。この胸に。但し、それは皆おなじ。すり減ってはまた、次の朝、元の大きさに戻っている。
こんな事では負けない。
泣かない。
泣けない。
強いと言われて、私は嬉しくもない。
どちらの側にも振れずにいたいだけ。
それだけ。
それを思えと。雲は横切ったか。
私は何者か。