私は何者か、411
笑えばいいことだが。
たとえば、結婚というシステムをすっ飛ばして、生きるうえで、覚悟、いや、そんな、カッコ悪いことではなく、ほんとうの、二人の通奏低音のような認識の相違はないか。いや、相違など大したことはない。まったく同じだということの方が、殊更の、危惧を抱くべきである、
私は週末の家で、飲み食いしたい放題などと、誰も言わぬが、その、見返りとしての、なんだろう、差し出すものなど、何もないのである。自らを削り、譲れないものなど、ほんの、ほんの、ひと握り。握れば、途端に、粉々に。しかし、その一粒こそが、我である。集まれば、また、我をかたちづくり、だからこそ、その、ひとつ、ひとつが、我でないわけがない。
眠り落ちる時に、一粒の我は、一粒の君の、その、腕のなかに、すべてを預ける。
間違ってはならない。ひとの、作ったであろう、システムに、何を取り込まれよう。
さよならcolor。ええやん。
keane。somewhere only we know。
ええに決まっとる。
何を今更。
いや、若きよ、さらに、麗しく、考えよ、
手遅れになる前に、齢、など、なんのレヴェルにもならぬものを。
その人に何を差し出させる。そんなことを思った時点で、愛など、何処かへ行ってしまっているだろう。
互いが築くものとしての、意味不明、正体不明な、それが、愛ではないか。何を差し出す、何を差し出させる。とか。
対象がたった小さな蚊ほどもない、それが、お前の敵ならば、お前は生きていても仕方ないと、それは自身で気づくべきである。
ゆっくりと歩き、話し、与え、受け、そのままの、個である。
そのための、人生である。
与えたのか。
得たのか。
わたしは、私の生きる道。
あなたに、告げたい。
互いに、取り込まれずに、シンプルに生きる。
その、しあわせ。
わたしは何者か。