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【02 宮崎の闇焼酎・2004年ver」】石原けんじ大佐焼酎論集          

初出:2004年5月20日(記載の内容は当時の状況に基づいている事をご了承下さい)

宮崎の「闇焼酎」の背景と歴史

  1. 20度焼酎が主流になった理由
    宮崎では、昭和20年代の闇焼酎の流行に対抗するため、低いアルコール度数の「20度焼酎」が普及しました。この取り組みは、闇市場への対応策としての役割を果たしました。

  2. 波島地区の闇焼酎文化

    • 宮崎市波島地区には、戦後に沖縄や奄美大島から移住してきた人々が多く住み、生活難をしのぐために密造焼酎が作られました。

    • 原料として使われたのはカライモ(サツマイモ)で、製造工程は地域での完全分業制で行われたとされています。

  3. 奄美・沖縄からの影響

    • 密造焼酎のノウハウは、奄美や沖縄での伝統的な酒造文化に根ざしていました。例えば、奄美のソテツでんぷんを使った密造酒の経験が活かされたとする証言もあります。

  4. 焼酎の流通と影響

    • 密造焼酎は、氷嚢に入れられ自転車や汽車で運ばれ、宮崎県内外に広まりました。大分や北九州などにも流通し、その影響で宮崎県や大分他県など、20度焼酎の文化が形成された地域もあります。

  5. 税務署の取り締まりとその影響

    • 国税庁や宮崎税務署が厳しい取り締まりを行いましたが、地域住民の団結力や組織的な製造体制によって闇焼酎は一時的に繁栄しました。

  6. 波島地区のコミュニティと文化

    • 闇焼酎製造の背景には、移住者たちの強いコミュニティ意識がありました。特に、一族での集まりや海岸での宴会などは、彼らの郷愁や日常の苦労を忘れるための重要な行事でした。


初出:2004年5月20日(記載の内容は当時の状況に基づいている事をご了承下さい)

■宮崎は20度焼酎が主流である
■南島から波島へ
■生きるための焼酎づくり
■ヤミ焼酎の光芒
■土中の遺物

宮崎は20度焼酎が主流である


この度数が主流になった理由は、波島地区で作られていた「ヤミ焼酎」対策のためと言われている。北九州や大分を荒らし、熊本や鹿児島にも対抗策として、一時的に「20度焼酎」を作らせた。この焼酎は昭和20年代に全盛を振るった。この焼酎は上記記事にも書かれているように、奄美、沖縄の宮崎移住者が生きるための必要な手段であった。「密造」であったため、関係者も多くを語ろうとせず、また戦後60年近くを経て関係者の多くも物故しているが、少ない伝聞と資料の中からこの焼酎を妄想してみたい。

南島から波島へ


宮崎市波島(当時は東大島)には元々軍需関係工場(川崎航空機)と社宅があり、戦前から沖縄、奄美大島の戦時疎開者、労働者が少数だが居住しており、またその親戚を頼った戦時疎開者もいたらしい。

戦後は、神戸や尼崎の工場地帯に居住していた奄美、沖縄出身者が、食料不足の中で親戚を頼りこの地区に大挙して移住し、またアメリカの占領下に置かれた奄美、沖縄から密航して親戚を頼りこの地区に移住した者もいた。上記宮日記事にも「徳之島出身の岡崎富芳(84)フサ(81)さん夫婦=波島一丁目=は五〇(昭和二十五)年、密航船に乗って同市に着いた。『島の生活は大変だった。『宮崎は食べ物もあるし、暮らしやすい』と聞いて、新天地を波島地区に求めた』という証言がある。この地区は現在も沖縄そば屋や、戦前の神戸にあったと言われる油粕を使った簡易お好み焼き「肉てん」を売る店があり、宮崎内のリトルオキナワ・アマミというべき雰囲気を色濃く残している。

彼らが一番近い本土の鹿児島を避け、宮崎に職を求め、居住したのは歴史的な反発(薩摩藩=琉球・奄美支配)があると言われ、戦時中の沖縄県からの学童疎開も鹿児島県を除いた、宮崎、熊本、大分の3県が主な受け入れ先になっていること(琉球新報参照)は興味深い事実である。

生きるための焼酎づくり


戦後の混乱期の中、南島や近畿の大都会より「宮崎は食べ物もあるし、暮らしやすい」といえども、食べていくのは大変だったのは容易に想像できる。まして彼らは田舎に突然現れたよそ者だったためなおさらだ。よそ者は田舎の安定した社会の枠外にいる。そしてよそ者は団結する。その中でいつしか「ヤミ焼酎」製造が始まった。

原料はカライモである。この焼酎は当時の宮崎の主流であるし、もう一つの主流である米焼酎は戦後の物不足で原料がなかった。彼らは戦前の出身地では米製や穀類の「泡盛」であっただろう(奄美も同様。黒糖は戦後から)。沖縄、奄美出身者どちらがヤミ焼酎を主導し、考え付いたのか・・・・。奄美出身者の証言によると「島で作っていたソテツのでんぷんや穀類の密造焼酎の経験が役立った」という話がある。

当時の様子をこの地区出身の宮崎市の焼き鳥屋「T屋」(現在は閉業)の店主と弟さんは「それぞれの奄美内の出身地区(上記記事の徳之島『亀津』出身者)などの固い紐帯の中で『完全分業』で製造されていた」と語る。店主の実家は「麹屋」だったそうで「一番難しい作業。地下室まで作って温度管理を気を使い念入りに作った」と胸を張る 近場の農家も手っ取り早い現金収入になるので喜んで芋を売っていたという。蒸留の際に使う燃料は、地区が海の近くにあるため防風林である松林から取ってきたという。

最初は自家用としての目的も大きかったようで、年に何回かは、それぞれの出身地区や一族で、作った焼酎を持って地区の近くの一ツ葉海岸に行き、車座になって焼酎を飲んで、指笛を吹き鳴らし、踊りまわって、海の向こうの故郷を思い出し、日頃の鬱憤を晴らしていたようだ。前出の焼き鳥屋店主はその光景を幼心に「土人(発言ママ)が踊っているようで怖かった、何でこんな事するんやろう」と思っていたそうだ。「今になると当然理解出来るんやけどね」とその後呟いていたが。

ヤミ焼酎の光芒


密造された焼酎は主に「氷嚢」に入れ、県内には自転車で運ばれていた。山伝いの道を主に使い、人目を避けて運ばれていたようだ。実際にこの焼酎を親が飲んでいたという、私の元上司は「安くて、旨かったがなあ~~(飲んでいたのか)、市販のものは高いし・・・・」と呑気に語っていた。

安くて質の高い焼酎は日本酒が主流だった宮崎県北部にも浸透した。実際、宮崎県児湯郡都農町は、日本酒が多く飲まれていたが、ヤミ焼酎の浸透で焼酎が広まったらしい(「焼酎天国都農も昔は日本酒を飲んでいた」参照=現在リンク切れ)という説もある。日豊本線伝いに小倉、大分あたりも荒らしまわったらしく、相当な量を売ったようだ。また鹿児島、熊本方面にも進出したという。現在でも大分は宮崎に次ぐ20度焼酎地帯。この焼酎の影響があったかどうか興味深い。

酒は税金である。昔は国税庁でも酒税方面は主流だったそうだ(今は違うらしい)当然、宮崎税務署が見逃す訳にはいかず、この地区にガサ入れを強行した。完全分業だった焼酎作りは、防御線、撤収作業なども「完全マニュアル化」されておりガサ入れは空襲、税務署員はニャンと呼び、頻繁に「戦闘」があったようだ。空襲がある日は地面を掘って、焼酎甕を隠した。敵もさるもの、棒を用意して地面を突付きまくり見つけた甕は叩き割った。苦労して作った焼酎を叩き割られた人は「お前らが飯を喰わせてくれるんか」という言葉と共に泣いたという。この攻防戦はしばしば新聞沙汰になった。(宮崎日日新聞55年史縮尺版・日向日日新聞編より)

その次に税務署は現在の宮崎焼酎市場に大きな影響を与えている決定をした。特別に20度(それまで焼酎は25度以上のみ)焼酎を宮崎県内の焼酎蔵に許可したのです。度数が低い程税金が安く、20度焼酎は安く、闇焼酎と対抗できる値段という論法でした。これは当たった。20度焼酎は、割らずに生で飲む宮崎人の嗜好に合い、また安かったことから、元よりヤミ焼酎より当然質の良い本職の蔵が作る焼酎に戻っていった。

他にも税務署や県の主導で、ヤミ焼酎現金収入源の代替施設として、でんぷん工場や琉球漆器を取り入れた「宮崎漆器」工場に補助を出した。住民も不安定でリスクを伴う焼酎作りからこれらの工場、また畜産関係にシフトしていった。こうして昭和30年以降、ヤミ焼酎は急速に消えていき、人々の記憶の中からも忘れ去られていった。

土中の遺物


この焼酎が遠い歴史になった頃、ふとした事からこのヤミ焼酎が脚光を浴びた出来事があった。

数年前、この地区の一部に、シェラトン・グランデオーシャンリゾート(元シーガイア)に向かう道路が貫通し、整備されていた。当時、宮崎は、沖縄、福岡と併催した「外相サミット」へ向けて主会場の元シーガイア周辺が整備されていた。道路の基礎工事で土をひっくり返したら、ヤミ焼酎の甕がごろごろ出てきたのである。50年ぶりに発見された甕の中の液体はというと、飲んだ人の話によると、なめらかな黄金色をしており、いわゆる土臭い芋臭は抜け、別種の素晴らしい芳香を放っていたという。住民は思わぬ「掘り出しもの」にあの頃を思って感慨を覚えたという。

現在、この地区を見下ろすように、シェラトン・シーガイアの45階ビルが建っている。旧シーガイアがシェラトングループになり、上階にあった、洋酒中心のオーソドックスなホテルバーは、今流行りの焼酎バーになった。オーシャンビューから見える日向灘を眺めながら焼酎を飲むのは堪えられないが、海の反対側にはこのような焼酎の歴史があることを思って、飲むのも良いかもしれない。
(了)

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