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『構造的解離』のためのジャネ入門①(かなり専門家向け)


はじめに

『構造的解離』はオノ・ヴァン・デア・ハート、エラート・ナイエンフェイス、キャッシー・スティールによって書かれたThe Haunted Selfの邦訳である。原著は三部構成であり、第一部を野間俊一・岡野憲一郎の両先生の監訳によって出版されている。

しかし上巻と題されて2011年に出されたものの、続巻は現在まで出版されておらず、今後もその見通しはたっていないと聞く。その理由としては様々あるだろうが、第一部が非常にシステマティックに構造的解離の理論が提出されているのに対して、第二部以降がその理論的基礎となったジャネの活動心理学の議論がなされており、ややわかりにくい内容になっていることがあるかもしれない。これは翻訳を待てず、原著で第二部に取り組む人にとって一つの障害となってしまうのではないだろうか。

そこで今回、『構造的解離』を読むための基礎的な情報として、ジャネについてまとめて記載することとする。参考資料としては日本語で手に入るジャネの一次文献をはじめ、エランベルジュの『無意識の発見』におけるジャネについての記載、またその他二次文献を利用している。まずは簡単なジャネの生涯について、そして最初の主著である「心理的自動症」の議論を簡単に述べることとする。

ジャネの生涯

ジャネは1859年にパリで生まれ、そして1947年にパリで亡くなった。最初のキャリアは高校の哲学教授に始まり、その教鞭をとるためにル・アヴールに移った。そのころのフランスでは、ちょうどシャルコーが「ヒステリー患者における、催眠術によって左右せらるる各種の神経状態について」を科学アカデミーにて発表した時期であり、催眠の科学的地位が再確立された時であった。そこでジャネは催眠の心理学的研究に取り組むことになる。当時は心理学が哲学の一つのジャンルであったことからこれは珍しいことではな買った。またその後、そこから精神医学の道に進むことも医師哲学者(médecin-philosophes)として当時のフランスでは特段珍しいことではなかった。

ジャネの知的背景は、叔父の唯心論哲学者であったポール・ジャネの影響もあり、まずはフランス・スピリチュアリズムの伝統で教育を受けたことが挙げられる。その代表者は『心理学的自動症』でも何度も言及されるメーヌ・ド・ビラン(1766-1824)であり、精神生活における感情や意志の役割を重要視していた。次に、当時新しい考え方であった実証主義心理学や進化論的哲学があり、前者はとりわけ前期の「客観的心理学」の、後者は後期の「活動心理学」の中に見られる。そして最後が、シャルコーによって全盛期を迎えようとしていたサルペトリエール学派である。

ジャネは博士論文の題材を探すため、ル・アヴールでの余暇を病院の患者や精神医学の研究にあて、そこで最初の実験を行うことになる。それは1885年にシャルコーが議長を務めるパリの生理学的心理学会にて、叔父のポール・ジャネが発表し好評を得た。しかし、これは遠隔地から催眠をかけるという超心理学の性格を持つものであり、すぐにジャネ自身がこの実験の不正確さに気づいて、以降は超心理学を離れてヒステリー、催眠、暗示といった現象を客観的視点から記述することを目指すことになる。

そこでジャネがとった方法は、「自分の患者は自分一人で診察すること」「患者の言動はすべて正確に記録すること」「患者の全生活歴と過去に受けた治療を綿密に調べ上げること」という、現在では当たり前ではあるが当時としては革新的な方法である。とりわけジャネは詳細に患者の言動を書き留めており、後に「ドクター・ペンシル」とあだ名される程であったそうである。この方法による観察の結果はいくつかの論文として発表された後に博士論文としてまとめられ、1889年に最初の主著である『心理学的自動症』として出版されることになった。また同年にジャネは国際心理学会で発表しており、その参加者の中にはフロイトの名前もあった。

医学の勉強を本格的に開始したジャネは臨床経験を進めていき、それをまとめて1893年に『ヒステリーの精神状態』の上下巻を刊行された。これはジャネ自身とその同僚の140人の患者の臨床観察に基づく細やかな記述的研究である。そして1893年、ついにジャネはシャルコーによってサルペトリエール病院に招聘され、心理実験室の初代室長となったのである。

しかしその直後にシャルコーは急死する。それでも同年には博士論文を提出し、ジャネはサルペトリエール内で自身の立場が危うくなるまでは比較的自由に研究と臨床を続け、ヒステリーに対する革新的な治療法を生み出し続けることになった。しかしシャルコーが去った後はナンシー学派による催眠は純粋に暗示に基づく心理的現象であるという見解が支持されるようになり、サルペトリエールの中でジャネは孤立していく。やがて、バビンスキーのようなヒステリーを暗示の結果の一種の詐病として扱うような考えが広まり、催眠を道徳的に避難すべきものとしたデジュリーヌが1910年に院長になると、ジャネサルペトリエールの表舞台を去らざるを得なくなった。もっとも別の病棟の小部屋で診察を続けることをしていたようである。生涯ジャネは診察を続け、80歳近くでも刑務所で女囚の治療を行っている。この点はフロイトの活動と対比されるものであるかもしれない。

1896年から、ジャネはパリの有名な高等教育機関であるコレージュ・ド・フランスの心理学教授に就任していた。最初はリボーの代役、そして後継者として、ジャネは1934年までこの講座を受け持った。その間にジャネの評価は国際的に高まり、特に1906年ハーバード大学での講義は『ヒステリーの主要症状』として出版されている。しかしこの時期、ジャネの心理分析に対抗する理論と技法をフロイトは「精神分析」として打ち立て、そして発展させていくことになる。ジャネとフロイトのライバル関係が生じたのである。

アカデミズムの中でのジャネの評価は揺るぎなかったものの、精神分析はそれを超えて広がりをみせ、フロイトの名声と精神分析の運動はムーブメントとなっていた。ジャネもフロイトも最初は著作の中で相互に好意的なコメントを寄せていたが、徐々にその関係は悪化していった。そして最終的にはロンドンで開かれた1913年の第17回国際医学会で、ジャネがフロイトの功績はほとんど自分の観察初見の追認に過ぎないと辛辣に批判することになったのである。これに対して精神分析家から猛反撃が行われ、ジャネの業績が現在まで長らく忘れ去られることになる大きな原因となった。およそ30年後にはフロイトの方が先に無意識とカタルシス法を発見していたが、ジャネは不当にその業績を盗んだのだ、という主張さえなされることになった。ちなみにこの国際医学学会で直接ジャネに反論したのはユングであったが、ユングはフロイトも攻撃し同年の決別に至っている。

この論争はどう評価すればいいのか。エランベルジュによれば初期のフロイトがジャネの発見の追認だったという見方は妥当であると思われる。一方で1913年のジャネの批判は初期の精神分析に向けられたものであり、その後の発展に関して踏まえたものではなかったと指摘されている。その後もジャネもフロイトも双方が著作の中でそれぞれを批判しているが、実際の関係はもうちょっと複雑だったかもしれない。ジャネは第一次世界大戦によってフランス国内で向けられた国家主義的なフロイトへの批判を擁護するコメントを発表している。またフロイトもジャネの影響を受けながら自らの理論を発展させていったという見方もされることがある。

しかしながら、エランベルジュが「時代精神」と呼んだものはフロイトに味方し、ジャネには逆風となった。1919年には大著『心理療法』が刊行されるも、これは第一次世界大戦によって出版が延期されたものである。これは周囲には時代遅れに映ってしまったようであるが、しかし英語版で1200頁を超えるこの本で述べられたジャネの治療論は、現代の解離性障害・トラウマ関連障害の治療に対して大きな示唆を与えるものとして、ヴァン・デア・ハートやパット・オグデンといった治療者に評価されている。このコンパクト版は『心理学的医学』として翻訳もされている。

『心理療法』が刊行された時期にすでにジャネはいっそう壮大かつ複雑な総合理論の創出に取りかかっており、それは「大総合理論」あるいは「活動心理学」と呼ばれる。『苦悶から恍惚へ』を端緒としたこの理論は、エランベルジュが「要点をかいつまむだけでも最低400〜500頁は必要となる」ほどの大著となるといわれたが、これはジャネによっては最終的に執筆されることはなかった。『無意識の発見』においてエランベルジュがそのスケッチを描いたものの、その成果は灰燼に埋まったポンペイのようであった。しかし『構造的解離』のとりわけ未訳の第二部以降のテキストは、まさにこの時期のジャネの議論に基づくものとなっているのである。

心理学的自動症

『無意識の発見』でエランベルジュが行ったまとめに基づいて、ここからはジャネの理論について(初期の哲学の仕事を除いて)、おおよそ年代順に見ていくことにしたい。

1889年に出版された『心理学的自動症』は、その後のジャネの理論的展開の基盤となるものであった。副題に「人間行動の低次の諸形式に関する実験心理学的試論」としてあるように、ジャネの試みは人間の精神の最も原始的な形をヒステリー患者の中に見出そうとするものであった。しかしジャネは予想に反してそこに高度に発達した活動形態を発見したのではないか、と指摘されている。意識の原始的形態には、理性、判断力、記憶の持続というものが高度に発達したものとして含まれていたのである。

これを説明するためにジャネが持ち出したのは、まず心の機能を「過去を保存・再現する活動」と「意識を統合する活動」の二つに区分することであった。前者には記憶・感情・動機づけが含まれており、普段はそれは後者の活動によって人格全体に統合されることになるが、時にさまざまな事情から人格全体に統合されず「固着観念(fixed idea)」として、比較的そのままの形を保ったまま普段の意識とは異なる「下意識(subconsciousness)」に保存されることになる。この作用は、心理的要因だけでなく、生理的・身体的要因においてなされるということも重要である。

この固着観念が何らかの理由で刺激や拡張された時、普段の意識と異なる状態がもたらされる。それは通常の意識の縮小という点から「意識野の狭窄」と呼ばれる。そしてその結果として、統合活動が減弱(あるいは崩壊した)「心理学的統合不全」の状態となるのである。それにより、過去に保存された活動である固着観念がそのまま出現することで、ヒステリーの症状が出現するとしたのである。

統合不全の状態においては、批判や内省といった高次の精神的機能が完全に損なわれているものもあれば(全自動症)、それが部分的には保たれているものもあった(部分自動症)。とりわけ後者は、一見正常に見える活動を行っているように見えるが、それは患者が主観的に経験する意識とは異なる下意識によって支配されたものである。ジャネはこの状態を解離と名付け、そのさまざまな形態について記述した。

現在は解離と心理学的統合不全はたびたび同じ意味で用いられているが、ジャネはこの二つを異なる意味で用いていたことは注目に値する。ジャネが見ていたのはいわゆる正常解離ではなく、高次の心的機能の受動的崩壊の結果として生じる異常解離である。フロイトに由来する精神分析の考えとは異なり、自我の機能が働いて(意識・無意識の双方において)能動的に必要ではないパーツを切り離す、ということではないのである。

こうしたジャネの説明をトラウマの視点で見ると、トラウマが二つの役割を果たしていることに気づく。まずそれは「過去を保存・再現する活動」によって、固着観念として存在しているということである。ヒステリーの症状は、この固着観念によってトラウマ体験が再現することによって出現するため、それを取り除くことで回復に向かう。現在これはトラウマ記憶とその侵入症状と言われるものであろう。

そしてもう一つは、トラウマ体験に内在する激しい感情によって意識野の狭窄、あるいは統合不全になりやすい状態が作られてしまうということである。この状態においては、簡単なきっかけでヒステリー症状が出現することになるが、ジャネはこれを「心理的貧困」と呼んだ。現は累積トラウマないしは複雑性PTSDの状態と呼ぶ状態とこれは関係するものであろう。

最初に見たように、『心理的自動症』の執筆はジャネがまだ本格的に医学の勉強に取り組んでいない状態でなされたものである。にもかかわらず、その後のジャネの議論のベースがすでになされているし、なにより現在のトラウマ・解離の理解や治療のための知見がふんだんに含まれていることに驚かされるものである。

②に続く。


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