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トラウマの歴史(1):鉄道事故、ヒステリー、フロイト【専門家向け】

なぜトラウマの歴史なのか

個人的背景

まずは自分語りから。

トラウマというのは、現在においては多義的な意味を持った言葉となっている。こうした概念を理解するためには、その概念がどのように発展してきたのか、そうした歴史的な背景を知る必要がある。

これは筆者自身のバックグラウンドである、人文学的アプローチの影響も多分に受けている。心理学に関わる以前の指導教官は、ある思想を学ぼうとするなら、それを主張した人物のバックグラウンドを徹底的に知ることが必要だと述べていた。「どんなパンツの色を好むのか、それぐらいイメージできるほどになりなさい」。

人文学においては、全ての概念をその普遍性とその歴史性の二面性から理解しようと試みている。その手癖が抜けない筆者としては、その普遍性と歴史性の双方からアプローチしなくてはならないのである。まずそうした極めて「個人的な」理由から、トラウマの歴史を調べ始めたのがこの原稿を書いている。

主観・客観・共同主観

しかしそうした個人的な理由以上に、歴史を学ぶことはトラウマの本質的理解に繋がると考えられる。

ハラリ(2016)は、分析対象を「主観」「客観」「共同主観」の三つに概念を区分して考えている。トラウマは、この三つのいずれからも記述しうるものである。

まず、「主観」である。主観的なものとは、単一の個人の意識や信念に依存して存在しているものである。本人が信念を変えれば、その主観的なものも消えたり変わったりしてしまう。

その反対にあるのが「客観」である。客観的なものとは、人間の意識や信念と別個に存在するものである。

「主観」と「客観」を巡る問いとは、トラウマの中核的な問題である。トラウマによる「傷つき」というのは、なんらかの実体的なものなのか?トラウマ的な事件は「主観的」なものでしかないのか?操作的診断基準という新たなテクノロジーはどこまでの客観性を担保できるのか?脳画像診断の技術の進歩はどこまで心理的現象を明らかにできるのか?トラウマを巡る議論の歴史は、主観と客観のせめぎ合いの中にある。

また、トラウマは「共同主観」でもある。共同主観的なものとは、多くの個人の主観的意識を結ぶコミュニケーション・ネットワークの中に存在するものである。一個人の信念の変化には影響されないが、そのネットワークに含まれる多くの人が信念を変えたりしたら、共同主観的現象は変化したり消えたりする。

何が「トラウマ」とされてきたのか、そしてその「トラウマ」がどう扱われてきたのかということは、歴史的・時間的な影響と制約を受け続けている。それはこれまでもそうだったし、これからもそうであろう。トラウマ、そしてPTSDをより深く理解していくためには、その概念の発生と経過という歴史的な視点が欠かせないと思う。

「苦悩はリアルである。PTSDもリアルである。ただ、現在PTSDに帰されている事実がリアルであるほどには(無時間的な)真理といいうるのであろうか?真理性は、研究者と臨床家とが事実性の意味とを知る際の社会的、認知的、テクノロジー的諸条件と切り離して問うことがいったいできるものであろうか?私の答えは”ノー”である」

A・ヤング(2001)PTSDの医療人類学 みすず書房

トラウマという概念において、その主観的・客観的・共同主観的なそれぞれの側面を捉えることは、その本質の理解へとつながる。歴史を学ぶことは、その達成の一番の早道であると思う。

はじめに

まずここでは、トラウマの歴史を、鉄道事故の後遺症から振り返る。そしてシャルコー、フロイトといった巨匠がトラウマにどのような態度をとっていたか、そしてその影響について概観する。

鉄道事故の後遺症を巡って:トラウマの実体性への問いと補償の関係

実体としてのトラウマの兆候は『ギルガメッシュ叙事詩』の中にすでに見出すことができると言われる。その他にも、シェイクスピアなどさまざまな文学・芸術品の中に見出すことができると言われる。しかしそれが今日的な意味で用いられるようになったのは、19世紀以降になってからである。トラウマの歴史を、まずはそこから見ることにしたい。

エリクセン『神経系の鉄道事故および他の原因による障害について』

トラウマ概念の始まりは1866年に発表された、イギリス人外科医のジョン・エリクセンの『神経系の鉄道事故および他の原因による障害について』においてであると言われる。最初のトラウマは、鉄道事故の後遺症として語られたものなのである。

エリクセンの出版の数年前から、鉄道事故の犠牲者にみられる「二次的」な影響についての注目がイギリスでは集まるようになっていた。直接的でわかりやすい外傷の後に、犠牲者の中にめまいや健忘、身体的な感覚以上や痛み、精神錯乱などの多彩な症状が見出されたのである。そうした二次的な症状は、被害者が事故で実際に被った身体的な傷に比べて、その程度が不釣り合いに重いということが度々見られた。そのため、事故が被害者にもたらした衝撃にはどのような性質と意味があるのか、ということが論点になったのである。

エリクセンは鉄道事故後に見られる二次的な症状を「鉄道脊髄症」と名付けた。これは、トラウマ後に生じる症状をまとまった形で提示されたはじめての疾患名である。エリクセンは同時代の医師と同じく、事故によるなんらかの物理的な損傷が脊髄と神経に与えられたという器質因があるという前提に立っていた。観察することはできないほど微細だけども、実際に身体が傷害されたために生じる症状であるとエリクセンは主張したのである。しかしその一方で、心理的な要素である「恐怖」も重要な要素を含むという、一種曖昧な態度がそこに見られた。また、主にヒステリーが精神の弱さであるという道徳的な立場から、エリクセンは鉄道脊髄症を当時女性の病であるとされていたヒステリーとは異なるものであると主張していた。

ペイジによるエリクセンへの反論とその背景

エリクセンに対して反論したのが、同僚のハーバード・ペイジである。ペイジは強い恐怖という情動は、それだけで神経系に重大な衝撃を与えるに十分であると主張した。ペイジは器質因が存在しなくとも、恐怖のみによって意図的な催眠状態を作り出され、模倣神経症の症状を誘発することがあると考えたのである。ペイジはこれを指して「全般性神経ショック」という概念をそこに名付けた。この心理学的起源を強調するペイジの学説は、シャルコーのヒステリー論を先どるものであった。ペイジはヒステリーと彼の述べるトラウマ後疾患を同一の心理的、生理的変化の現れであると見做していたのである。

エリクセンとペイジの学説は、それぞれの立場と直接的に結びついて主張されたものである。ビクトリア期における鉄道というのは近代化の象徴であり、それによって起こされる鉄道事故は「己の運命をコントロールすることができない」というものとして、一種の実存的な恐れを伴った。そうした中でイギリスでは1846年に、不注意によって死亡事故を起こした者への遺族の請求権が認められるというキャンベル法が成立した。鉄道会社を罰することを求める社会的なプレッシャーから、鉄道会社に多額の賠償が認められることになったのである。

エリクソンの学説は、鉄道事故によって生じた二次的な障害の補償を求める人たちから、盛んに引用されることになる。あくまで鉄道事故によって生まれた器質的な傷害は存在しているというのがエリクソンの述べることであり、そのためそれを生み出した鉄道会社に賠償責任がある、ということの論拠とされたのである。そこで膨れ上がる賠償金を抑えるために、鉄道会社に雇われた外科医がペイジである。ペイジの理論を元に鉄道会社は、被害者は実際はなんら傷害を受けておらず、賠償金の支払いの義務はないと主張することになる。より直接的に、ペイジは被害者の補償欲求が症状を作り上げると主張している。

トラウマの実体性への問いと補償の問題

エリクソンとペイジの対立は、いくつかの点で現在まで続くトラウマを巡る議論を先取りしている。

まず、トラウマの実体性を巡る問いである。エリクソンは観察不可能ではあるものの器質的な傷害があるとして、トラウマは実体性なものであると主張している。一方でペイジは器質的な傷害の存在を否定し、その実体性を疑問視し、あまつさえ補償欲求が症状を作り出すとまで述べることになった。また、いずれの立場も、それは医学と補償の問題と結びついている。つまりトラウマの実体性が医学的にいかに認定されるかということが、原因と結果の結びつきをも証明するものであり、それによって加害者と被害者の双方にあまりにも大きすぎる影響を与えるものとなっていたのである。

これらと同様の問題は、例えば裁判における傷害罪の成立を巡る争いなど、今日の法廷での議論でも垣間見ることができる。

シャルコーとトラウマ:トラウマの心理化への道

シャルコーによるトラウマ理解

鉄道事故の後遺症としてのトラウマが関心を集めた同時期、2500年もの間了解不能とされてきた病であった、ヒステリーの科学的研究が注目を集めることになる。それを推し進めたのがフランス人神経学者のジャン=マルタン・シャルコーである。それ以前は子宮に由来する女性特有の病としてしか理解されなかったヒステリーは、「神経症のナポレオン」とも呼ばれたシャルコーによってはじめてその特徴を詳細に検討されると同時に、劇的な仕方で大衆に提示されることになったのである。

シャルコーはトラウマ理解も、ヒステリーとの関係において語られている。シャルコーにとって、あくまでトラウマとは具体的な外傷体験が生み出すものであったが、それを神経系損傷の結果生起する器質性麻痺と区別し、「トラウマ神経症」「トラウマヒステリー」「ヒステリー性トラウマ」として別個のカテゴリーに置いたのである。シャルコーはトラウマ神経症について、身体的な事故の発生を前提としていたものの、打撃そのものではなく、その出来事の心理的な経験、つまり「強度の精神的動揺」がその主たる症状の源泉であると考えたのである。

シャルコーはトラウマ体験に続発する神経性ショックを催眠に類似した一種の類催眠状態であると見做し、そのためその個体に自己暗示が成立しうるのだという仮定を置いた。つまりショックによって非常に暗示性が高まる状態になると考え、それは催眠暗示を受けやすいヒステリー患者と同様の状態になると考えたのである。その結果として生じる症状は、ヒステリーと同様のものであると主張した。つまりシャルコーはトラウマ症例を、後に神経症と呼ばれるようなヒステリーの下位分類として位置づけたのである。

シャルコーがサルペトリエール病院で治療したヒステリー患者は、そのほとんど全てが女性であった。それに対して、彼がトラウマ神経症と名付けたほとんど全ては成人男性だったことは注目される。当時女性特有のものとされていたヒステリーは、トラウマ症例を通じて男性にも生じうるものとして示されたのである。すなわちシャルコーは、ヒステリーの原因を子宮という臓器の問題から、耐え難い経験の結果として生じる心理的プロセスの問題として記述しなおしたのである。のちにこの心理的プロセスは、ジャネによって解離の名を与えられることになる。

またシャルコーは、当時のフランス精神医学の定説に倣って、精神疾患はもともとあった遺伝的脆弱性が顕在化したものとして捉えていた。シャルコーのモデルは、元々の素因を持ったものが、身体的事故に遭遇することによって、ショックを受けて催眠に類する精神能力の減弱期をへて、病的な症状を呈するものと捉えたのである。シャルコーのモデルは素因か心理的要素か、片方の原因が優勢であるという考えは与せず、二元的な統合モデルを提出している。

シャルコーのトラウマ理解の特徴と限界

シャルコーのトラウマ神経症の理解は、それが非暗示性の問題と関わること、そして耐え難い経験の結果としての解離の問題であること、また素因と環境の二元論的モデルを示したことという3点において、現在的な理解と一致している。また、身体因から心因の強調への変遷という、トラウマの心理化の過渡期にシャルコーを位置付けることができるだろう。

しかしシャルコー自身は症状の記述には熱心であったものの、患者その人自身、そしてその生活の内面に対してはあまり興味を示すことはなかった。また、シャルコーは男性であれ女性であれ、ヒステリー性疾患の性的病因論の可能性は断固として認めなかった。シャルコー自身は明らかにその側面を診察し、記述していたにもかかわらず、性的経験がヒステリーを生じさせる重要な病因とは考えず、そういう理論も作らなかった。その点については、その後継者であるジャネやフロイトとは対照的であると言える。

フロイトの二つのトラウマ理解とその特徴

フロイトの初期のトラウマ理解:誘惑理論

フロイトの精神医学での仕事は、シャルコーのヒステリーとトラウマ理解の継承から始まっている。1885年、フロイトはパリでシャルコーの講義に参加し、その翌年にそこで見た男性ヒステリーの症例をウィーンの学会で発表することになる。それは仕事中に遭遇した事故後に片麻痺になった男性ヒステリーの症例であった。

精神分析の始まりを告げるのは、フロイトとブロイアーによる『ヒステリー研究(1893)』であるが、ここでフロイトはシャルコーの理解をいま一歩深めて、外傷性の神経症のみならず、一般のヒステリーにもその原因となったトラウマ体験があると主張することになる。こうしたトラウマ体験は、患者の通常の心的状態においては記憶から全く抜け落ちている。記憶に付随しているはずの情動もまた、表出することなくそのまま残されている。すなわち、ヒステリーの原因となるのは「十分な放出に失敗した心象」であり、それをさしてフロイトは「ヒステリー証者は、主に回想に病んでいるのである」と述べるのである。

さらに続く「ヒステリーの病因について(1895)」の中で、フロイトはヒステリーの原因を幼少期の「早すぎる」性的体験であると特定し、それを「ナイル河の水源の発見」だと強調した。青年期以降のヒステリーの原因と思われるようなものは、あくまでその遥か以前の幼少期の性的な外傷の無意識的記憶を引き起こすトリガーにすぎない、すべての原因は性的なトラウマ体験にあると主張したのである。

この立場を、成人が子どもを性的に誘惑したことによって神経症が生じるということで「誘惑理論」と言われる。この時期のフロイトは最もトラウマを重視している立場となっている。治療法も後の精神分析とは異なり、「放出」を目的としたカタルシス/徐反応を促すものとなっている。

フロイトによる誘惑理論の放棄とその後

しかしこの「誘惑理論」はフロイト自身によって破棄されることになる。患者が語る過去の経験が必ずしも真実ではない、ということにフロイト自身が気づいたからである。そこからフロイトは、現実がヒステリー症状を引き起こすのではなく、空想こそが引き起こすのだという主張に大きく転換する。フロイトは、ヒステリーに見られる記憶障害や再現は、シャルコーやジャネのように解離から生じるのではなく、エディプス期危機をめぐる葛藤と抑圧の結果であるとした。そしてその葛藤は現実的な被害や脅威ではなくあくまで空想的なものであり、「誘惑の光景はなかった」と結論付けるところまで行き着いたのである。

誘惑理論を放棄したフロイトは、それ以降に心的現実と主観的経験に焦点をあて、その独自の深層心理学の理論を発展させていくことになる。しかしそれは、外的現実への興味を締め出すことでもあった。いわば「幻想を擁護するために現実のトラウマは無視された」のである。

誘惑理論から引いた後、フロイトは再度トラウマに接近した。それが第一次世界大戦における戦争兵のトラウマである。兵士たちが見せる多彩なヒステリー症状に対して、フロイトは平和時の自我と戦争時の自我の葛藤という自身の神経症モデルでそれを説明しようとするが、どうしても外傷体験が立ち戻って侵入してくる様を自身の欲動理論で説明できなかった。そこで記憶が抑圧された結果として、外傷体験を過去のものではなく現在の経験として体験せざるをえなくなるという「反復強迫」といわれる、後のトラウマの再演の問題に繋がる説明を導入する。しかしフロイト自身はこれが適応的な、生命肯定的なものであると説明するのを諦め、「死の本能」という議論ある概念を持ち出さざるを得なかったのである。

しかしながらここでも、フロイトは実際の性的被害の存在には回帰することはなかったのである。

フロイトの転換の影響

フロイトはなぜ誘惑理論を放棄したのか。まずその理由としては、実際に外傷体験が存在しないにも関わらず、神経症症状が形成された事例を確認したからであろう。実際の体験の有無に関わらず、外傷体験を「心的現実」のものとすることによって、その問題解決を図ったのである。

そしてこれには、当時の男性優位社会における政治的判断も重なったことが指摘されている。つまり性暴力の存在を否認するような社会的圧力があった、というのである。現在でも性暴力を明るみにしようとするときに起こる社会の反応を見れば、当時においてはさもありなん、である。フロイト自身の家父長的価値観ももちろんそこに影響しているだろう。

こうしたフロイトの転換は、トラウマ概念の心理化の極と見ることができる。最初はエリクセンが主張したように、トラウマは現実の外傷によって生み出されるものと考えられた。徐々にそれは恐怖や過去の記憶といった心理的概念によって引き起こされるものであるとされ、最終的には幼児期の空想に行き着き、現実の外傷の存在は関係ないものとされてしまったのである。

こうしたトラウマの心理化の結果、フェレンツィなどの極少数の例外を除けば、精神分析を受け入れた臨床心理学・精神医学においては、現実のトラウマの否定・ないしは矮小化へと進むことになったのである。

おわりに

まずは今回は、鉄道事故を巡る議論から、シャルコーのヒステリー概念、フロイトの転向を辿っていった。トラウマ体験が実体的な外傷から離れ、どんどんと心理化していき、最後には空想によって生じるものとされていった。

この次は、そうした流れの中で忘れられた偉大なる治療家、ジャネについて述べることとする。

参考文献

飛鳥井望(2008)PTSDの臨床研究:理論と実践 金剛出版

アンリ・エレンベルガー(1980)無意識の発見(上) 木村敏・中井久夫監訳 弘文堂

ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)サピエンス全史(上):文明の構造と人類の幸福 柴田裕之訳 河出書房新社

べッセル・ヴァン・デア・コーク,ラース・ウェイゼス,アレキサンダー・マクファーレン (2001)トラウマティック・ストレス:PTSDおよびトラウマ反応の臨床と研究のすべて  西沢哲訳 誠信書房

マーク・ミカーリ,ポール・レルナー(2007)トラウマの過去 金吉晴訳 みすず書房 

アラン・ヤング(2001)PTSDの医療人類学 中井久夫,大月康義,下地明友,辰野剛,内藤あかね共訳 みすず書房」


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