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儚く美しい、長屋のショートケーキ
いつものように仕事に向かう夫を見送り、洗い物を済ませると、自分の始業時間まであと1時間半。
今朝はとてもいい天気だったので、家にいるのもなんだか勿体無い。急いで裏起毛のパーカーとジーンズを引っ張り出し、ハンドバックに財布とエコバックだけ詰めて、薄化粧のまま家を出た。
とことん寒がりな私が朝散歩に出かけるなんて何ヶ月ぶりだろうか。
Googleマップを拡大したり縮小したりしながら、なんとなくお店が多そうなエリアを探す。朝なのでまだ開いているところはほとんどないけれど、良さげなお店は外観だけでも先にチェックしておきたいので、散歩がてら見に行くことにした。
行ってみたいリストに追加するお店、見つかったらいいなあ。なんて考えながら、わくわく歩きはじめた。引っ越したての土地を散歩するのは、お宝探しのようだ。
公園では幼稚園児が凧揚げをしていた。30センチ四方ほどの凧に描かれたチューリップや電車や丸い顔が、きゃきゃと笑う子どもらの声とともに空へと上がっていく。青く澄んだ空が、もっと澄んで輝いて見える。この街は今日も健やかだ。
手袋を忘れたので、歩いていると手先が冷えてきた。あたたかい飲み物が欲しい。自販機で飲み物を買ってもよいのだけれど、こんなにも美しく澄んだ朝、せっかくなのでカフェにあるホットドリンクを嗜みたい。
とはいえ、始業の時間が近づいていたので、寄れるとしてもテイクアウトだけ。だから、レトロな喫茶店には入れない。
そういえば確か、この辺りに営業中のカフェがあったはず、と住宅街を右に左にずんずん進んでいくと、5メートルほど先にそれらしき長屋を見つけた。
白壁に黒と茶の木と漆喰がなんとも美しい木造建築には、飲食店らしき店舗が3軒ほど並んでいる。そのうちの一つに、モーニングやドリンクのメニューが書かれた看板が立てられていた。
よし、と入り口の引き戸を開けると、そこには日頃の喧騒を忘れさせてくれるような、なんとも儚げで、閑静で、柔らかな空気が流れていた。
最初は、店先のメニュー表にあった柚子茶だけをテイクアウトしようと思っていたのに、すっかりこの空間に魅了された私は、1秒でも長くこの空間にいたくて、ショーケースに目を移す。いちごにチョコ、タルトにチーズ。ちょこんと同じ方向で並ぶケーキがなんとも愛らしくて、夫には内緒でショートケーキを一つだけ、自分のご褒美に買おうと決めた。
いらっしゃいませ。と声をかけてくれた男性は、若くて色白な店員さん。涼しげで端正な顔立ちと佇まいが、これまた美しい。朝からこんな爽やかな方に接客してもらえるだけでも、幸福度は上がると思った。
そんな素敵な店員さんが、私の薬指を見て、(このおばさん、自分にだけケーキ買うんだ、旦那さんかわいそう)なんて思ったらどうしよう。朝からふらふら、自分のケーキだけ買いにくるおばさんとして覚えられてしまっては恥ずかしい。
どうでもよいことを考えてしまって、結局夫にもいちごのタルトを一つ買ってやることにした。今日は飲み会で家に帰るのは深夜もしくは外泊って聞いていたのに。帰ってこなかったら、夜中に二つとも食べてやる。
お店を出て、甘い柚子皮が入ったほかほかの柚子茶を啜りながら、白い息を吐く。まだ夫も知らない秘密の隠れ家を見つけたことに、驚きと喜びが隠せない。
今度は絶対、お気に入りの本を片手にイートインでチョコレートケーキを食べてやるんだ。そう決意して、帰路につく。
鍵を開け、部屋に入り、掛け時計を見ると始業時間10分前だった。よかった、ギリギリセーフ。
それにしても。朝散歩は非常に気分が良い。いいお店にも出会えたから、今日はより一層満足している。
Googleマップの「行ってみたいリスト」にそっと追加し、さて、とワークチェアに腰掛けた。
大阪・阿倍野エリアで暮らす日々の一コマと思い出を残しておきたく、
エッセイ「あべのさんぽ」はじめました。
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