岩波新書の旅3 「歩く、見る、聞く 人びとの自然再生」 宮内泰介著(1647)
岩波新書のおもしろさ
3冊目にして気付いたことがある。
本のタイトルや目次を見て、きっとこんなことが書いてあるんだろうなと
予測して本を手に取るのだが、裏切られる。
もちろん、いい意味で裏切られる。
著者が書きたいことを全面に出すと売りづらいから編集者が一般的なタイトルをつけてしまうのか、それとも幅広い人に読んでもらう入門書として役割を完うしているのか。
結果的に、私は最後までじっくり読んでみたら著者の主張が見えてくる構造にそんな結末だったの!?とミステリー小説を読んでいるかのような感覚で楽しめた。
言い換えれば、主張は一般化され、私の生活や思考に届き、私の体内で咀嚼され、浸透していったからなのかもしれない。だから、決してタイトルや目次が嘘をついているわけではないことに後で気付く。
SDGs
2050年までに二酸化炭素など排出温暖化ガスを0にする。
2023年が始まったので、残り27年。
この時、人間と自然(地球)を意識せざるを得ない。
私と地球と言い換えてもいいかもしれない。
さぁ、何をできるだろうか?何をすべきだろうか?
そもそも自然とは?
この本は優しい。
前提を一つずつクリアにしてくれる。
まずは「自然」だ。
相手を知ろう。
自然とは、ただそこにあるものではない。
人との関わりの中で自然はある。
半栽培
木になる実をとる。実ができるまでに人間の手が入っていないので自然。
人間がこの実をたくさん食べ、(意図的であるなしに関わらず)種を捨てることでこの木が増える。
美味しい実だけを食べるようになると、美味しい実ができる木が増えていく。
人間が品種改良したりせずとも、自然は変化をしていく。
そして変化していく自然こそ、自然と捉えるべきだろう。
人間とは?
相手を知れば、今度は自分のことを知る番だ。
「私」と自然ではなく、自然は「社会」と関わってきた。
「社会」とは、共同体。「私」が集まって生きてきた。
これをここでは「コモンズ」と呼ぶ。
しかしながら、「コモンズ」は現代にあまり存在しない。
所有
共同体として生きる感覚は「所有」によって壊されたように感じる。
共同体として「総有」している状態。
みんなのものであり、みんなで使う。
組合だとか町内会のようなものは少なからずあるが、
横のつながりが優先的に考えられることは少ない。
今は無きコモンズと自然
自然と人間との関わりは、コモンズとして関わってきた。
コモンズと自然の関わりはある意味、成功をなしてきた部分がある。
しかしながら、コモンズの存在しない現代において、
自然とどうやって関わるのか、関われるのか。
コモンズという共同意識の薄れた地域の人たちと、いかにしてコンセンサスを取っていくか。合意形成をしていくのか。
所有が各個人の手に渡ったとき、
ゴールが複数あること、失敗を許さない、ハードルは高い。
コモンズの復活を唱える人も多いが、それは可能だろうか?
著者の主張
コモンズの復活ではなく。各個人と丁寧に付き合うことしかない。
聞き書きに代表されるように、人の話を丁寧に聞く。
それぞれのストーリーがあり、それぞれの自然がある。
合意形成ではなく、安心・調和を取り戻す行為が重要だ。
データ化・わかりやすさの影
冒頭に述べたことが自然と人間の中にも起こっている。
効率的に把握したり、データ化された本質のように見えることでは
抜け落ちたものがある。
演繹法のようなゴールから始まるものだけではなく、
一歩一歩積み重ねる帰納法のような生き方が必要。
自然と生きていく・SGDs
2050年までの目標は自然と生きていく通過点予測。
もう自然と人間という関係性は無くなってしまうかも知れない。
足元を見てみよう。
どこかの首相のように口だけにならず「人の話を聞こう」
特に自分とは違う人の声を。
畑を耕そう。一歩一歩を大切に生きよう。