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プロフェッショナルとは

こう私は思っていた。

プロフェッショナル = 技術でお金を稼ぐ

しかし、昨今の風潮を見ると、この考え方は古い気がしてきた。

Noteで自分の記事を書きながらも、英語学習に関する他の方々の意見、経験というのは気になるので、読ませて頂いている。これは、英語を勉強し続けるためのモチベーション維持に役に立つのだ。異なる勉強方法や他人の英語に対する思料が私にとっては大変ありがたい。

先日読んだ記事に印象に残るものが2つあった。

一つ目。単価の良い仕事を掛け持ちし、若くして会社を立ち上げ、運良く成功した社長の話だ。彼がある会社に融資をした際、融資先の社長が自分よりも年上、且つ職人であるにもかかわらず、お金を持っているだけの私に対し、深々と頭を下げ、敬語を使ってきたとのこと。その姿を見て、特殊な技能も持たず、名誉欲や金銭欲にかられ成功した彼は、ブランド品で自身を着飾る事に執着してきた理由に気づいてしまったという。根拠のない自信から積み上げられただけの自分の地位が崩されないようにするために必死だったのだ。そして、「今の社長職をやめたら自分にはお金以外何も残らない事に気付いた」と最終的に語っていた。

もう一つは、これとは対照的な記事だ。

英語を教える仕事している人が書いた記事。その方は、ありとあらゆるSNSを駆使して自身を世の中に売り込んでいた。あけすけな手法には正直関心するものがあるが。SNSを通じて自身のプライベートを晒し、オンラインレッスンの生徒を募るというやり方。そのうち裸体でも晒してしまうのではないかとドキマギさせるが、そうした雰囲気でもない。その人のオンラインレッスンは相場よりも高い。

その先生は、最近の投稿記事で「有名になりたい」と語っている。本心だ。私は、その記事を読み、その人にとって英語を教えているという行為は、別の最終目的を達成するための、ひとつの手段でしかないのかと思った。英語を上達させたいという一心で、高いお金を払っている生徒さんに同情した。

本音と建て前を分けるのが日本人のひとつの文化であるとするなら……

「生徒さんには英語を話せるようになってほしい」というのを全面に押し出そうよ!

最近、その方はNoteの記事を英訳して載せている。原文と英文の両方を読んだが、その翻訳が英語の中級レベルの私でも(修行中)少々稚拙な英語ではないかと、思わず唸ってしまうレベルの訳文であった。もちろん英語は通じればいい。ただ、この方は先生である。

確かに、英語の長文を大人っぽく、間接的な表現を用いて書く、いわゆるアカデミック(大学生レベル以上)に書くことは、話すことよりも何十倍も難しい事だと思う。私自身、勉強を続けている身だが、アカデミックな文章を書くのに苦労している。ネイティヴ先生に「書いてある事が理解できない」と何度も言われる。

先程の有名になりたい先生の話に戻る。英語を教える事で有名になりたい方が、どのような英語のレベルなのかは十分に理解できた。それでも、日本では英語教師として、お金を稼ぐ事のできる国であるのだとも理解した。

SNSを最大限に駆使する事によって達成しようとしている。

実態として、長文を書く事が苦手な英語教師は、日本にはざらにいるだろう。そして、苦手なライティングを極力避けて、英語ができる雰囲気だけを世の中に与え、その雰囲気と営業力をもってビジネスとしている。英語に弱い国だからこそ成り立つビジネス。

ただ、英語のライティングスキルは国際社会では不可欠だ。メールや報告書で、文章を書くことは、話すのと同じくらい重要な武器となる。日本語の堪能な外人が、書くことがままならない場合、その人は生きてはいけても、ビジネス社会で地位を得ることは難しいのと同じだ。

最近のSNSの普及によって、有名人になるというハードルが下がった、誰でも有名になれる時代だ。

プロフェッショナル=技術でお金を稼ぐ

私のこの定義は崩れ去り、分からなくなった。今はポピュリズムだけで政治家に、名前だけで商売ができる時代だ。

インターネットであらゆる情報が否が応でも入ってくるし、その影響によりポピュリズム社会となり、私たちの本質を見抜く力はどんどん鈍っている気がする。自分の中の価値基準や経験則に頼るしかない時代となった。しかし、その価値基準も情報量の多さと日本独特の同調するという習慣?性格?遺伝子?によって、失われている。忙しく過ごす日々のせいで、本物を見る目を養う暇さえ与えられないとなると事態は深刻だ。

容姿端麗で有名になった俳優やジャニーズ系の芸能人の最近の動向を見ると興味深い。歳を重ねながら、アイドルを続けていくことに疑問を持ち、渡米や事務所脱退する方々が多い。容姿であれだけの人気を勝ち取れるだけでもすごい技術というか、運。自分のふわっとしてきた人生を見直し、正直になろうとしているのだろうか。将来を見て、確固たる技術や価値基準を身につけるため、タイミングをみて行動に出ているように見える。

こうした行動は、ポピュリズムの繁栄の結果生み出されるもので、私たちが高速の消費社会に生きているという証拠である。

学生の頃、私はジャニーズ事務所の有名人をテレビで見ながら、「天は人に二物も三物も与える」とつぶやいたりした。愚かにも、世の中の不公平性を嘆いたりもしたが、人間はそんな単純な生き物ではないらしい。自然や本質に背いて生きると必ずしわ寄せがどこかにくる。真理は一つしかないと信じたい。




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