「天気の子」は「転機」そのものだった【ネタバレなし】
大ヒット上映中の「天気の子」を観た?ぼくは観たよ。内緒にしておいてほしいんだけど、2回も。「君の名は。」は3回劇場に足を運んだから、「天気の子」でも少なくともあと2回は観に行くだろうな。つまりはすごくよかったんだ。もちろん、内容には触れないよ。ネタバレは無粋で、ぼくは粋だからね。
ぼくは、実は新海誠監督の作品が大好きなんだ。距離の美学、切なさを受容するかのような、あるいはそれすらも美しいと捉えるかのような描写。もしくは審美眼。ポエティックなセリフ。青く、脆く、刹那的で、美しく完結した二人の世界とその喪失。「君の名は」を除いて、彼の作品にはいつも「喪失感」の後味が残る。セブンスターを吸い終え灰皿に捻ると、舌にじっとりとタールの味が残るようなそれ。心地よい気分とは決して言えないが、手放しに否定できない味わいがそこにはある。
そういうある種の「喪失感」を求めて、ぼくは新海誠作品を貪るように観る時期がときどきある。そのタイミングでは、いつもぼくは何かの「喪失感」を抱えることになっていて、でもその「喪失感」の扱い方がよくわからなくて、まるで数年越しにできた彼女みたいに思える。傷つけたくなくて、それでいて大切にしたくて、やるせなさと嬉しさとが入り混じるんだ。
もしかすると、「喪失感」に対して少しでもポジティブな感情になることは否定されるかもな。でも、あなたもそうでしょう?ぼく達は誰しも「喪失感」を抱えて生きている。何かを常に捨てながら生きながらえる。人生は選択の連続でもあるが、それはつまり喪失の連続でもあるんだ。その穴ぼこを淡く肯定する感情こそが「エモい」とか「郷愁」とか呼ばれているんだよね。
新海誠作品は、そういう誰しもが抱えている「喪失感」を主役にしてしまう。だから彼の作品に浸るたび、ぼくの「喪失感」は不完全にも歩き始める。はじめて立ちあがり歩く赤ん坊のように、ヨタヨタと。「喪失感」が喪失感でありながらも、生きながらえること自体をなんとか肯定してくれるのが、ぼくにとっての新海作品だった。
もしここまでの文章に共感できるのなら、「天気の子」はあなたの一つの「転機」になる作品かもしれない。シャレじゃなくて、本当に。たぶん、ぼくがその一人だった。もしあなたが「天気の子」を観たなら、ぜひそれを肴に一杯やろう。DMをくれよな。本当に。
ここから続きを話そう。この世界はあまりに個人的な事情に対して冷たすぎるな、と常々思う。ぼくたちはみんなそれぞれ、違う場所に異なる深さの傷を抱えているはずだ。百人百様の夢があるのであれば、百人百様の「喪失感」が存在しうるし、それを語るに足る物語を持っているはずだ。世界という大きな物語は、その個人的で「小さな」物語を無情にも飲み込んでしまう。そういう運命的な大きな動きが美しいと思えた冬も昔あったが、今この時点では違う。個人的な事情こそが美しいんだ。そう信じないと、ぼくは生きながらえる自信が持てない。だから、そう信じたい。そう信じることにする。
そもそも「小さな」物語は、あくまで世界という「大きな」物語との相対化で名付けられるだけだ。ぼくたちが持つ物語は、それぞれにとっては立派な「大きな」物語であるし、誰もそれを小さいだとかしょぼいだとか揶揄することは許されないし、少なくともぼくは許さない。あるいは、ぼくはあなたの「大きな」物語に丁寧に耳を傾けるし、次の章へとペンを進められるように対話しようと思う。力になると思う。
誰がなんと言おうとも、あなたにとっての物語は「あなたにとってこそ」大切だし、あなたが大事にするという覚悟を決めるか、あるいは諦めるかしないと動き出さない類のものだ。覚悟か諦めを伴わない物語はいつまでたっても序章のまま。モノローグから抜け出せずに出版する人生で納得だろうか。天国で歓びを纏いながら語ることができるだろうか。個人的な物語を汲み取るのは、他でもない自分以外には不可能なんだ。完璧な読者など理論上存在できず、唯一の可能性を秘めているのは他でもない自分なんだ。それだけなんだ。それだけ。
少し、嘘をついた。「自分の物語の完璧な読者は自分しかあり得ない」という部分。少し、というのはそれが真っ赤な嘘ではないという意味で、部分的に否定できる、あるいはちょっとした反例があるという意味だ。そしてちょっとした反例は、まだ勇気が持てないあなたとぼくにとっての希望なんだ。今から紹介するよ。
確かに、「自分だけ」が完璧な読者を希求できるということ、ここには間違いはないと思う。親友だって彼女だって奥さんだってお母さんだって、もっと名前で象れないあの人だって、完璧な読者たることはできない。でも、当人が完璧な読者を希求する手前やきっかけとしての「理解者」になることはできる。あるいは、あなたにもぼくにもそういう「理解者」は存在し得る。
「理解者」は他の誰よりも、あるいは自分よりも自分の個人的で「小さな」物語に身を寄せて耳を胸に貼り付けるように聴く。どんな描写も感情も逃さないぞと、映画を観るように一瞬一瞬を目に焼き付け、小説を読むように一行一行を反芻し体内へ取り込む。そうして、お互いの物語を共有することで「小さな」物語は枠組を壊す。個人的で「小さな」物語から共有的で「大きな」物語へと、部分が融解し、相互に交わり重なることで、新しくも懐かしい形式を帯びる。その輪郭は、それを共有するぼくとあなた、あるいは「理解者」同士を決して肯定も排除もせず包みあう。まるで世界がそれで完結するかのように、完璧な調和がもたらされる。ただ傷を舐め合うでも、歓び合うでもなく、もっと言葉にできない深く形而上的な領域で一体化する。世界を共有する。
はじめは自己本位に、個人的に生きようとした覚悟や諦めが、ある時点から共有的で非干渉的、協力的で相互依存的なあらゆるマテリアルを飲み込んで、要素からは全く想像もできなかった物語を奏で始める。それは、身を投げる恐ろしさを感じる隙間すらないくらい、完成した美しい旋律だ。完璧な美を前には、ぼくらは瑣末さを忘却せざるを得ない。調和したメロディーはぼくらから重力を奪う。バイオリンとピアノの協奏に心を打たれるように浸り、エネルギーが自然な輪郭を取り溢れだし、上下左右の概念と感覚がなくなる。不思議にも「ずっとそこにいた」かのようにぼくたちを存在させ続ける。遠い日、羊水で眠り母親の愛情を一心に受ける赤ん坊の赤ん坊のような安堵が包む。
そして、おそらくそういう関係性はたった一人とも言えない。ぼくらが望む数の限り、存在し得る。そうして、共に生きることができる。もう少し丁寧にいうならば「共に生きられるという希望を抱くことができる」と表現になるだろうか。
だから、ここまで読んだのだから、あなたはぼくと一緒に「喪失感」に頼って生きることをやめ始めなければならない。もちろん、それを望むのであれば。心の奥底で実は望んでいるのなら、「このままでも別にいい」と投げやりになることなく、ただちにやめなければいけない。「喪失感」があってもいいやという諦めが、諦めであるのならば、物語は動かないからだ。個人的な物語は「小さな」ままだからだ。自分が自分の読者たる覚悟かそういう類の諦めを持てていないからだ。
ぼく自身は、「おれはこれでいいから」と悲哀を背負ったフリをしてみても、その実「喪失感」を拠り所にして死の選択に蓋をしているだけだった。喪失を抱え生きる美しさを肯定しているようで、これ以上何かを失うことを恐れているだけだった。本当はもっと創造的な人間でありたいのに。本当は、誰かとこのどうしようもない「喪失感」を共有し合いたいだけだったし、それを埋め合う美しい関係性を紡ぎたいだけだったのに。「ぼく」と「きみ」の境界線がぐちゃぐちゃになる関係性。物語。幻想であっても、それを信じたいだけだったのに。
ひとまず、ぼくは「喪失感」を拠り所に生きるということを辞め始めようと思う。もっと共有的で協力的で創造的な物語へ書き換え始めようと思う。そのタイミングに、遅いということはないだろう。個人的で「小さな」物語をやめ、声を貼ってどうどうと「これはおれにとって大きな物語だ」「他でもないおれにとって重要なんだ」と喚いてみようと思う。少なくとも、ぼくは。
追伸 辞め「始める」という表現に、ぼくの不安が浮き出ていますね。始めるときは、だいたい大小はともあれ不安がつきもの。入学式の日の朝8時半みたいな気持ちで、この文章を締めることにする。