自己責任論へ責任追及
「自己責任」の考え方は、誰も幸せにしない。全てを不幸へ葬る、危険思想。それでいて、その危険思想は当然のようにあらゆる人々の意思決定の基準となる。
何よりタチが悪いのは、自己責任論が人を傷つけ自分を守る刃物にしかならないことを、ほとんど無自覚であることだ。無意識まで入り込んだ価値観ほど、威力が高く修復が難しいものはない。良くいうと「文化」であるが、それは言い換えると「イデオロギー」にもなり得る。ファシズムのように。
自己責任論は、一体どのように人を不幸へ葬るのか?どのように、一方的な刃になっているのか?どのように循環し、攻撃をし合う関係性へと堕落させてしまうのか?ぼくは今日、狼だぬきとして自己責任論の責任を問おうと思う。それくらいまで罪深いのが原告「自己責任」なのだ。
例えば、不登校。最近は、「不登校も一つの選択肢」という言説も少しは影響力を持ち始めた。一昔前は、ひどかった。不登校なんて、その子どもがひ弱で、内気で、精神的に内側に欠落を抱えていることの典型的事例のように扱われていた。いじめがあろうとも、学校の抑圧に耐えれなかろうとも、「本人の精神的課題である」とするのが、基本的自己責任論の仕組みである。自己責任入門。ここまで、60点は取れるかな?
不登校という現象には、精神的、内面的要因では説明がつかないことが多い。いじめには、いじめっ子が存在する。親友と喧嘩したのだって、親友が部分的には原因だ。「なんとなく」だって、深掘りを続け彼の心の声に耳を傾けると、「学校の抑圧的なやり方が、居心地を悪くさせる。それどころか、嫌悪感すらいだかせる」という相互依存的な要因が絡む。
「抑圧が嫌だ」という理由に着目する。実は、抑圧しているのは学校だけではない。所属クラスの担任だけでも、体育の先生でもない。家族との関係性も入り込む。ヒステリックな教育ママの絶望的な押さえ込みが、10数年かけてジワジワ染み付き、個人的な鬱憤になる。家庭と学校、子どもの主要なコンテンツがどちらも抑圧的であることに限界を感じ、張り詰めた弦が切れたかのように「なんか嫌だ」が訪れる。ぷつん。ここに、どれだけ内面的な原因が存在するだろうか。個人的な精神的欠落は主たる要因だろうか。自己責任は妥当か。
もう一つ、際どい例がある。痴漢の例だ。こんなツイートを某青い鳥のSNSで目にした。
このツイートは、自己責任論に対する少々極端なアンチテーゼだ。案の定、返信は地獄の極み。だいたいTwitterのリプ欄なんて、閻魔大王でも嫌気がさす地獄だ。閻魔大王が「これが本当の地獄か...」と言う光景が思い浮かぶ。笑える。いや、笑えないか。ははっ
多くの人に批判されそなこの意見をもう少し噛み砕くと、こうだ。「痴漢」という行為は、性欲の発散という単純化された図式で説明することはできない。ただ一人の娘は1年以上口も聞いてもらえず、中間管理職としてプレッシャーマネジメントの上司と思考力の低い部下との板挟み、積み重なる睡眠不足と妻とのセクスレスによる未処理の性欲。そのような数々の要因が入り混じった複雑性の中で、今日も満員電車の仕事帰り。終電も近い。能動的に痴漢はせずとも、常時痴漢的な距離の山手線。肉体的な疲労と、精神的な疲弊、ストレスの限界の中、未処理の性欲が浮かび上がる。すでに痴漢的な距離感の中、目の前には若く、体のラインが明確に浮き出るワンピースの女性。終電間際、酔っている女性は、どの状態より魅力的だ。判断能力を失っ多中年サラリーマンは、女性の臀部へと手を...
だいたい、このようなストーリーが察せられる。これは、痴漢をした男性を想定して、かばっているわけではない。もちろん、犯罪だ。罪は、償う必要がある。バッシングも受けてしかるべきだ。問題は、「本当に100%彼に原因があるのか」ということだ。満員電車でなかったら?娘と健全な関係が気づけていたら?上司や部下と分かり合い充実して働けていたら?妻と、3ヶ月に1回程度は寝ることができていたら?
2つ、教訓がある。1つは、原因と結果は入り乱れるということ。痴漢とは、あらゆる彼の抱える悩み、課題、問題に対して、満員電車と魅力的で酔ったように見える女性という設定の中でたまたま表面化した問題に過ぎない。繰り返すが、彼が悪い。そこに弁明の余地はない。妻との関係不足や仕事のストレスを理由に言い逃れ、許されるわけはない。ただ、それほど顕在的な問題、つまり人間が認知する問題というのは、あらゆる複雑な原因の一つの側面に過ぎないのだ。北アメリカの海でタイタニックが衝突した氷山も、視覚化しているのは一角に過ぎない。海面下には、表面から想像もつかないくらい膨大で、途方も無い氷山が腰を据えている。問題は、一側面の、たった一部分に過ぎない。
もう一つの教訓は、あらゆる問題は関係性の中で生じるということ。満員電車をなくせば痴漢が減る、自家用車を廃止すれば交通事故はほとんど皆無になる、など、前提となる条件や環境設定を変えることで問題の表出可能性を圧倒的に避けることができる。もちろん、メリットとデメリットの関係で、人間は利便性を選択してきたわけだが、それくらいには問題は関係的であるということだ。足が悪くて困るのは段差があるからだし、目が悪くてもなんとかなるのは眼鏡とコンタクトのおかげだ。ぼくらが問題として捉えていること、自己責任にしたくなることの中には「眼鏡」があるものと、未だないものがある。「眼鏡」がまだない問題は、自己責任的になりうる。
合わせて考えると、こうだ。ぼくらの問題認識は表面的なものに過ぎない。数多の原因が煩雑に絡み合って、結果との因果関係すら「解なし」になる方程式のような複雑さ孕む。因果関係の複素数方程式。虚数解はありうるが、ぼくらは現実に虚数解を想定しない。そして、その複雑性は個人の中で完結しない。関係性の構成員が増えるほど、決して処理できない煩雑さへ到達する。3人組の組み合わせは3通りしかないが、4人組になった途端に、組み合わせは6になる。1人しか増やしていないのに、倍になった。ちなみに5人組だと?10通りだね。意外と数学は役に立つ。
つまり、個人の中でも複雑に絡み合う原因と結果(問題)が、プレイヤーが増えるたびにその複雑性が複利のように増え続けるわけだ。5人組から2人を選ぶのは10通りだが、3人の関係性、4人の関係性も想定できる。さらに、それぞれが10個ずつ原因を持つと?その組み合わせと5人の組み合わせを考えると?そもそも関係性は組み合わせではなく並び替え的要素もある。順番というのは、確かに人間関係に寄与する。とたんに、計算不能。思ったより受験数学は使えなかった。
ぼくらはそれほどまでに複雑性の高い世界を生きている。昔は、地域のことを考えるだけでよかった。テクノロジーの時代は違う。文字通り、70億人以上の規模での関係性はありえるし、その中で絡み合う原因と結果を紐解き、特定の1人に原因を帰すことなんてできるはずがない。自己責任論の限界。自己責任、お前のせいだ。多くの人が、苦しみ、もがき、悩み、時に生命すら絶やす。
最後に、自己責任の擁護をさせてもらう。このままじゃ可哀想だからね。さて、今責任を追及された「自己責任論」は、どんな複雑な関係性の中で生まれ、選択されてきたのだろうか?
ぼくらは、何もわかっちゃいない。何もわかっちゃいないこと以外は。