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「自己〇〇感」が多すぎて。

「自己肯定感」っていつからこんなに言われるようになったんだ?

私自身、「自己肯定感が低い」と認識しているのだけれど、
その認識はいつできたんだっけ?

そう認識するようになってから
いろんな心の機微が自己肯定感が低いことに起因している場合もあるなと、
「自己肯定感の高め方」なるものにいくつか目を通してきたけれど、知識として学んだところで変容を遂げられるわけもなく。

都度都度思い出したように得た知識に立ち返ってみるものの、身体的、精神的にきちんと作用させることの難しさに気がつくばかり。
最近では他にも「自己〇〇感」と名のつくものを本や記事で目にすることも多くて、「自己受容感」「自己効力感」「自己有用感」「自己重要感」「自己信頼感」などなど…
字面だけではイマイチ意味がわからない。

「自己…感」ってのは、自分のことを認識する感覚ってことなんだよね、?で、その認識がポジティブなものであれば、日々を、人生を健やかに気持ちよく生きていられる。ってこと、?

だとしたら、そう捉えられるようになりたいなと、
まずはそれぞれの「自己…感」がどんなものなのかと
それぞれググっているとき、ふと思った。



なんだか「自己」にばっかり意識を向けすぎなんじゃないか?
そのせいで、苦しくなってやしないだろうか?



「自己」を外に向けて話してみる。


自分のことは自分が一番よくわかっている。という反面、自分のことが一番よくわからない。と感じることもあるし、
「自己」は自分以外の誰かによって、輪郭が作られて浮かび上がってくるようなものでもあるとも思っている。(自己=自身が認識する自分という存在と理解。違うかも。)

「自己」を「自己」で考えたときにわかることにはきっと限界があって、悩んでるとその限界にちょいちょい達してしまうから、どんどん苦しくなっていく。
自分が自分をどう認識してるか、自分にしかわからない感覚を明確に捉えようとするなんて考えはじめたらどつぼよね。その時々の心の持ちようにもよるだろうしさ。人に話すことで解決することがあるのは、きっとそういう理由もあるんだろうな。

話すことで、「自己」の深層にズブズブ沈んでいくことなく、ズームしすぎていた悩みに対して、大きいスケールで見られたり、相手から自分がどう見えてるか知れたりして、客観的な視点での新しい自分を発見できたりもする。
話しながら、自分でも思ってもみない言葉が口から出てくることもあったりするもんな。

「自己」は「他者」や「みんな」との関係性のなかにある。


ここ数年、「会社も社会もなんの保証もないし、自分が強くならないと、、」っていう気持ちが膨らんで、変わらねば!と行動するなかで「自己肯定感」っていう言葉にあたった。模索しながら自分自身をもっと高める必要性を、必要以上に感じてしまっていたと思う。

そんで、「自己〇〇感」をポジティブなものにしたくて、いろいろチャレンジしてみてわかったことは、「自己〇〇感」を高められるのは、「他者」との関係性のなかでしかないということ。
自己をどう認識するかは、他者との関係性や集合体のなかにおける、自分のあり方を認識する必要があると思う。

「自分はこういう人間だ」ってことを、自分の存在だけでわかることって難しくて、個人として比較したり、みんなのなかの自分の存在を認識したり、つながりや関係性を意識することで、やっとこ「自分ってこうなんだ」ってわかってくるんだと思う。

自己の捉え方を変えるために、ただひたすら自己を探究しても見つからない自己が、他者や集合体のなかにある。
自分の内にあるものを、自分の外のなかで見つけられるって面白い。
そして、それを見つけるのは、あくまでも自分なんだ。

だから人は人と話すし、繋がるし、いろんなものと関係性をもっている。
一人では生きていけないし、そもそも一人なんてものはないのかもしれないな。

「自分」は「自分だけでできているわけじゃない」ってこと。


その感覚を、ちゃんと腹落ちさせることが、
日々を、人生を、健やかに気持ちよく生きていくことの秘訣なのかもしれない。




とか、やいのやいの言ってるけど、残しておきたいことは、これ。

自分の存在もみんなの存在も、あるってだけでミラクルで、「自己〇〇感」なんてものをあーだこーだ考えてないで、ご飯食べて、人と話して、たくさん笑って、お風呂入って、寝ろってこと。


おい、あたしよ、わかったか!






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