『深読み 村上春樹 スプートニクの恋人』第20話「ラ・ボエーム 前篇」
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スナックふかよみ にて
どしたの?岡江クン…
この曲の歌詞って…
・・・・・
おいおい、また脱線かよ。
岡江君、キミってやつには本当にまいっちまうぜ。
さっさと話を進めようじゃないか。
そうよ。まだチャプター1の半分あたりなんだから。
このままじゃ今夜中に終わらないじゃないの。
うん…そうだったね…
じゃあ引き続き、すみれの作業風景の描写を見ていこう…
すみれは小説を書く際にワードプロセッサーを用いていた…
もちろんワードプロセッサーがある。ひとつのキーが、ひとつの文字を示している。
『THE CATCHER IN THE RYE(ライ麦畑でつかまえて)』における、主人公ホールデンの「タイプライター」ね。
そう。サリンジャーがタイプライターのメーカー名を出さなかったので、村上春樹もそれに倣っている。
だけどさ…
「ひとつのキーが、ひとつの文字を示している」って当たり前じゃない?
わざわざ書く必要ある?
これは『ヨハネの黙示録』第22章13節のことだ。
22:13 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
ギリシャのパトモス島で晩年を過ごしていた使徒ヨハネに対し、主イエスは聖霊を送り、重要なメッセージを伝えた。
その中で、神はあらゆるところに遍在するということをギリシャ文字に喩えて「アルファでありオメガである」と言ったんだね。
英語で言えば「A to Z」ということだ。
なるほど。
語り手「ぼく」は、こんなふうに続ける。
そして彼女には数多くの書くべきことがある。数多くの語るべき物語がある。どこかに正しい出口のようなものをひとつつくってやれば、熱い思いやアイデアが、そこからマグマのようにほとばしり出て、知的にして斬新な作品が次々に生み出されるはずだった。人々はその「希有な才能を持つ大型新人」にの突然の登場に目をみはるはずだった。(中略)しかし残念ながら、そんなことは起こらなかった。実際にはすみれは、始めと終わりのある作品をひとつとして完成させることができなかった。
これもイエスのことね。
イエス自身は何も「作品」を書き残さなかった…ということを言ってるんだわ。
「はじめとおわり」のジョークつきで(笑)
その通り。
そして村上春樹は、こんなふうに続ける…
実をいえば、彼女はいくらでもよどみなく文章を書くことができた。文章が書けないという悩みはすみれとは縁のないものだった。頭の中にあるものを次から次へと文章に移しかえることができた。
神は自分では書けないけど、誰かに書かせることは出来たってことね。
聖霊を地上に飛ばし、選ばれし人間の脳内に入り込み、メッセージやイメージを代理筆記させれば、いくらでも書かせることが出来た…
まさにパトモス島で主イエスが使徒ヨハネに行ったことだ。
そしてこんなふうに続く…
問題はむしろ書きすぎることだった。もちろん、書きすぎれば余計な部分を削ればいいわけなのだが、話はそう簡単ではない。自分が書いた文章が、全体にとって必要なのか不必要なのかを、うまく見きわめることができなかったからだ。
これも『ヨハネの黙示録』第22章ね。
主イエスはヨハネに対し、ここまで伝えてきた言葉の「過不足」を勝手に判断するなと戒める…
22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
そう。ここでは人間に対し「預言を勝手にいじるな」と戒めている。
理解するのが難しかったり言葉が足りないと思える部分を補足したり注釈をつけたり、不適切だったり過剰と思える部分を削除したりしてはいけないと警告しているんだよね。
つまり「余計な解釈を一切するな」と。
なんだかサリンジャーみたい。
「みたい」じゃなくて、まさにサリンジャーなんだよ。
村上春樹は『ヨハネの黙示録』における主を、サリンジャーと重ね合わせているんだ。
他者に『THE CATCHER IN THE RYE』の一切の解釈を禁じたサリンジャーをね…
ヒュ~♫
・・・・・
皮肉ってやつか。
でも、それでも足りなかったから『サリンジャー戦記』でも愚痴ってたわけね。
そして、すみれの原稿問題は、こんなふうに続く。
翌日になってプリントアウトしたものを読み返すと、書いた文章がすべて欠かせないようにも見えたし、場合によっては、すべてがなくてもいいもののようにも見えた。
これもまさに『ヨハネの黙示録』のことを言ってるね。
『ヨハネの黙示録』は福音書の世界観とは明らかに異なり、オカルトめいた文言やショッキングなフレーズが連発するから、ミサや儀式などで読まれることはまずない。
内容が内容だけに『ヨハネの黙示録』は、新約聖書に入れるかどうかで長年議論がされてきた「問題の書」だったんだよ。
ネタの宝庫だけどな(笑)
そして「ぼく」はこんな冗談を飛ばす…
あるときには絶望にかられて目の前のすべての原稿を破り捨てた。もしそれが冬の夜で部屋に暖炉があれば、プッチーニの『ラ・ボエーム』みたいにかなりの暖がとれたところだが、彼女の一間のアパートにはもちろん暖炉なんてなかった。
『ラ・ボエーム』といえば、中森明菜よね。
いや、ちあきなおみでしょ。
なに言ってんだい。長谷川きよしに決まってるだろ。
おい春木、久しぶりにやるか…
いいですね…
深代ママ、お店のアコーディオン借りますよ…
二人とも、すごーい!フランス語もいけるのね!
俺の住んでるエイト・チャンネル諸島は、フランスが目と鼻の先だからな。
それにネーサンの兄弟、つまり俺の義理の叔父にあたる人がボルドーでワイナリーを経営してるんだ。だからよくフランスへは遊びに行く。
わたしはヨーロッパ生活が長かったもんで。
ところでさ…
なぜ村上春樹はわざわざプッチーニのオペラなんか持ち出して、鼻についた言い回しをしたのかしら?
『ラ・ボエーム』みたいに暖炉があれば破った原稿で暖がとれたなんて、別に面白くもなんともない冗談だと思うんだけど…
村上春樹はサリンジャーのやったことを踏襲しているんだよ。
え? また?
サリンジャーは『THE CATCHER IN THE RYE』の中で、プッチーニの『La Bohème』のアイデアをいくつも使っている。
というか『THE CATCHER IN THE RYE』は『La Bohème』から生まれたといっても過言ではないんだ。
マジで!?
これが『ライ麦畑でつかまえて』の元ネタなの?
・・・・・
『La Bohème』は『THE CATCHER IN THE RYE』と同じように「イエス・キリストの物語」になっているんだよ。
ヒロインのミミがイエスを演じている。
だから彼女はクリスマスの夜に皆の前に現れて、4月のある日にこの世を去ってしまうんだよね。
劇中でミミの現れた日の日付がはっきりしてるのに、死んでしまう日の日付がわからないのは、クリスマスと十字架刑のことを指しているからなんだ。
そっか…
クリスマスは固定日だけど、十字架刑の日は毎年変わるもんね…
そして『ラ・ボエーム』では、ヒロインのミミと詩人ロドルフォの二人の間で「赤いバラ色の帽子」がキーアイテムとなる。
これはイエスの象徴「いばらの冠と赤い衣」をひとつにしたものだ。
劇中で二人がこの「赤いバラ色の帽子」をやりとりするんだよね。あげたり、また返してもらったりと。
これをサリンジャーは「赤いハンティング帽」に置き換えた。
そしてホールデンとフィービーの間で『ラ・ボエーム』と同じことをやらせたんだ。
フィービーはミミ同様に純粋な存在で「イエス」の役割を演じているからね。
『ラ・ボエーム』の「屋根裏部屋に住む貧乏な4人の芸術家」とは使徒たちのことだよな…
そしてミミのパートナーになる詩人ロドルフォは筆頭使徒ペトロ…
なぜなら二人の出会いのシーンは「ミミの部屋の鍵をロドルフォが見つける」というものだから…
これか(笑)
マタイによる福音書
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
『天国の鍵を持つ聖ペテロ』
ルーベンス
だから村上春樹は『スプートニクの恋人』の後半に「失くした鍵」のエピソードをいれたんだよ。
『THE CATCHER IN THE RYE』の元ネタ『La Bohème』に敬意を表して。
なるほどね。
それで合点がいったわ。あの唐突に挿し込まれる鍵の話が。
さて、ミミとロドルフォの出会いのシーンといえば、二人が歌う自己紹介の歌も最高に面白い。
比喩や駄洒落でお互いの正体、つまりイエスとペトロのことを「なぞかけ」にして歌うんだ。
これもサリンジャーや村上春樹をはじめ、多くの作家にインスパイアを与えてきた。
『THE CATCHER IN THE RYE』や『スプートニクの恋人』を語る上でも欠かせない歌なので、ちょっと詳しく紹介しようかな…
いいね!俺も大好きだ、この2曲は。
真剣な顔して歌ってるのに歌詞はギャグの応酬だから、もう笑いが止まらないよな(笑)
え? これのどこがギャグの応酬なの?
英語の翻訳歌詞じゃわからないんだ。イタリア語の原詩じゃないと。
その辺も含めて詳しく解説しよう。
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