源氏物語は光源氏の物語であり、小さなそして過酷な世界に苦悩する女性達の物語である
学生時代、あまり楽しかった記憶がない。
過去の私を知る人間からすれば「嘘つけよ!」と一蹴されそうになるが、そこは触れずにそっとしておいて頂けると有難い。正直に言えば「過去は水に流そうぜキャンペーン」を4年ごとに実施する私の脳内において、数十年前の学生時代の記憶なぞもうほとんど残っていないのである。
私の脳内は常に新しいものを置いておくことでいっぱいだ。やっと一人暮らしができる1K構造であり、今を生きるので精一杯。記憶の物置部屋など存在しないのである。
そんな中でも今でも鮮明に残っている記憶がある。高校時代のグレ期だ。
中学を卒業した後、自称地元の進学校に進学した私は毎日迫りくる小テストの数々と高速過ぎる授業内容に辟易していた。こんなの望んでいないと鬱憤が溜まり、授業中にバットを持って職員室に殴り込む妄想を何度もしていた。ヤバイ奴である。
その一方で一日でも休むと授業に追いつけないことを怖がり、休まずに学校に通う真面目さも持ち合わせている中途半端な生徒でもあった。
けれど少しずつ溜まる鬱憤がどうしようもなくて、この小さな世界から抜け出したいけれどどうにもできないと途方に暮れていた。そしてふと「抜け出せないのならとことんここ(高校)を利用してやろう。使いまくってやる」と開き直り、私は放課後に図書室に入り浸ることにしたのだ。「ここの本を全部読んでやる、タダだしな!」と躍起になり、面白そうな本を探したのである。(これを友人に言うと「それはグレやない、典型的な優等生や」と言われた。私は自分では本当にグレていたつもりだったのである)
そしてそこで出会ったのが「あさきゆめみし」、源氏物語の漫画版であった。
古典の授業の足しになれば良いくらいに思っていたのに
古典の先生はそれはそれは怖い人だった。
長い髪を後ろで一つに結び、キリッとした目つき、そして何故か魅惑と感じてしまう眼鏡をしている若い女性だった。若いけど怖い。けど授業はすごく上手い、分かりやすい。
その先生が受けもつクラスは他のクラスよりも平均点が20点も上という事件もあった。怖いけど生徒はその先生に「点数を上げて褒められたい!」という欲があったのだ。典型的なSとMの関係である。
古典の授業では予習が必須で、みんな必死になって予習をしていた。そして授業で扱い始めた題材が源氏物語である。私は「あさきゆめみし」を見つけた時に「予習になって良いじゃん、漫画だから読みやすいし」と喜び、早速手にとって読み始めたのである。
その時の出会いが十数年後にまた一から源氏物語を楽しむことになるとは想像もつかなかった。
これは1000年前の恋の物語
「源氏物語って面白いの?」
こう聞かれると「面白い」と即答できる。
では念のため簡単に源氏物語のストーリーを説明しよう。
主人公となる光源氏は桐壺帝という天皇を父に、桐壺の更衣という母を持つ大層美しい男児として生まれた。天皇の息子として生まれるも、母の身分が低かった為に皇子としては認められず、身分の高い貴族として生きていくことになる。
母である桐壺の更衣は身分は低かったものの大変美しい美貌の持ち主で、帝の寵愛を一身に受けていた。しかしそのことで他の女性から妬み恨まれ早死にしてしまう。
彼女の死に悲しんだ帝は、桐壺の更衣にそっくりな藤壺という若い女性を側に置いて愛するようになる。源氏も義母として藤壺に接するが、母を早くに亡くした寂しさと藤壺の美しさにいつしか彼女を愛するようになり、関係を持ってしまう。そして二人の間に生まれた男児(冷泉帝)を桐壺帝の子供として育てさせ真相を隠し、源氏は許されない罪を背負いつつも藤壺を忘れられない自分に苦悩する。そんな時、藤壺にそっくりな若い女児(紫の上)を見つけて....━━。
源氏物語とは主人公の光源氏と彼に関わる多くの女性とその周辺の生涯を描いた長編小説である。物語は大きく三つに分かれた三部構成に分けられる。
源氏の誕生と源氏世代(源氏・紫の上・明石の君など)を中心とした物語。
源氏の子供世代(夕霧・柏木・女三宮・玉鬘)を中心に描かれる物語。
源氏の死後、孫世代(薫・匂宮・浮舟)を中心に描かれる物語。ここは宇治十帖とも言う。
武士ではなく、天皇を中心とした貴族の公家社会の生活を描いた小説でもあり、当時の生活様式や考え方を垣間見ることができる歴史の資料として見ても面白いのである。
源氏物語は1000年前の男女の恋を描いた物語なのだ。
だけど何故だろう、この作品を他の娯楽小説などと一緒にしてはいけない神聖さや清さがあるのだ。ただ単純に物語として見てはいけない気がして仕方がない。
1000年前の作品だから?平安時代の作品だから?当時は珍しい女性作家の作品だから?代表的な日本の古典文学だから?
正直分からない。分からないが単純に「小説」というカテゴリーに納めたくないという感情が出てくる。読者にこう思わせる作品を書き上げるとは、同じ文章を書く人間として羨望と嫉妬の目で作者の紫式部を見てしまう。すごい、くやしい。
読者である私が源氏物語を神聖な作品として見てしまう反面、作品自体のストーリーは今で言うと非常に生々しいというか、昔で言う昼ドラというか。とにかく男女の愛憎の物語である。とある作家は源氏物語のことを「エロ本」とまで言っていた。否定できないのが笑えてしまう。うん、まぁ、エロいっすね。そこが面白いんですけど。
源氏物語は光源氏の物語でもあり、小さなそして過酷な世界に苦悩する女性達の物語である
源氏物語はとにかく男女の恋のもつれ、当時の女性の生き場所の無さを如実に描く物語である。
男性からの交際を頑なに拒む女性に対して「どうしてそんなに私をお憎みになるのですか。あなたが冷淡だから私は強引な手に出ざるを得ません」と女性に責任転嫁する描写が多く、当時の女性観を垣間見れる気がする。
一夫多妻制だった為に夫が別の女性の元に出かける時も「お気をつけて」と送らなければいけない。そうでなくては「心の狭い女」と嫌がられるのだ。女性は少しでも位の高い男性と結婚して加護してもらわないと途端に人生が崩れ落ちてしまう。その為変な人から求婚されたり結婚出来ず田舎で朽ちる人生に絶望して、俗世を捨て出家し仏勤めをするか自殺を考える女性キャラが非常に多いのだ。
この時代の女性の救済は出家か死かの選択肢くらいしかない。
作中では仕切りに「女というものは...」と各キャラが持つ女性観を語るシーンも多いのだが、今の女性が聞いたら「お前は何を言ってんだ」と怒りそうな考えも沢山ある。
しかしこうした考え方が平安時代だったのだと理解しようと思う反面、女性である紫式部がこれを書いたのかという感服に近い感情も生まれるのだ。
紫式部の男性から女性に対する心理描写の描き方は、これを女性が書いたのかと感じるほど現実的で清々しいものだ。紫式部の表現力の高さ、キャラクターに対する作り込みがどれほど繊細なのかと軽く感動さえする。
男性が他の女性の元に出掛けた際に妻に対する言い訳が「あっぱれ!」と言えるほど白々しく開き直っており、気を抜くと確かにそうだと納得しそうにもなる。その一方で葵の上(一番最初の源氏の妻)や紫の上が嫉妬をするのも当然だと思えて面白い。
そして紫式部の真骨頂だと感じずにいられないのが、他の女性の元に出かける男性を想って寂しく不安に感じる女性の心理描写の美しさだ。
「嘆息をあそばされた」「煩悶をし...」「物思いに耽る」「お恥ずかしくなられて」「心細くなられて」「憐れに思われて」など、作中では寂しく暗い気持ちになるような描写が数多くある。そしてこの感情を抱くのは圧倒的に女性達だ。
源氏物語に出てくる女性達は桜のようだ。
作中では「散る桜、咲く桜」という言葉が使われる。女性達は自身の運命を悲しく思いながらも涙をこぼし儚げな表情をする。季節の草花や雨、月の満ち欠け、鳥の囀りなどと自身の心情を上手く和歌に乗せて表現する。暗く悲しいシーンのはずなのに何故こうも美しく綺麗に感じてしまうのだろうと不思議にすら思う。
紫式部は女性を丁寧に描いている。当時は物のように扱われ、行動に制限もあった時代の中で、運命に翻弄されていく女性達の心情を丁寧に丁寧に描いているのだ。
源氏物語は光源氏の物語であり、そして平安時代に生きる女性達の物語でもあるのだ。
主人公なのにそんなに好きになれない光源氏。作者は意図的に書いてる?
源氏物語はその名の通り光源氏が主人公なのだが、読んでいるとふと感じてしまうのだ。
「紫式部、源氏に対してちょっと辛辣じゃない?」
はっきり言えば、作中に出てくる数多くの女性達の苦労や悲しみなどの心情には共感できる点が多いが、源氏に対してはそれが少ないのだ。いや、むしろあまり共感出来ないように書いてる?これ意図的?と思える描写が多い。
作品の舞台は平安時代。
今とは比べられないほど女性の身分が低い時代だ。そんな時代で生きていく女性の姿を現代の私という読者が見て「応援してあげたい」と思うのは当然であり、それ故に源氏に共感出来ないのであろうか。
とにかく源氏に対しては「え、いや、それお前のせいじゃん?」「え、引くわ」とツッコミを入れてしまいたくなるシーンが多い。仮にも主人公である。私が女性だから余計にそう思うのか?と考えていたら、源氏物語好きで有名なたらればさんも「光源氏については、読者にいくら嫌われてもかまわない、と思っていたとしか思えない描写がある」と言われていたので、そうだよなうんうんと首を縦に振るしかなかった。
例えば亡くなった昔の恋人(夕顔)の忘れ形見である娘の玉鬘(たまかずら)を見つけた当初は父親のように彼女を保護し世話をやく源氏。しかし玉鬘のあまりの美しさに惚れてしまう。玉鬘は「本当の父はあまり知らないが、この人は父のように尊敬しても良いのだろうか」心を開きそうになるが、源氏から愛の告白をされて引いてしまう。
「今まで心に秘めておりましたこの感情を抑えることがどうして出来ましょう。あなたに求婚する他の者よりも今まで必死にこの愛を隠していきた私の方が誰よりもあなたを愛している」と源氏が玉鬘に熱心に愛を力説している中、私は「何を言っているんだこいつ...」と頭が痛くなった。因みに与謝野晶子はこのシーンを「変態的な理屈である」と一刀両断に現代語訳している。あ、はい、そうですね。
当時の古典の授業や漫画版を読んだだけでは、葵の上や紫の上が源氏に冷たくあたるのを理解できないところもあったが、改めて現代語訳版をじっくり読んでみると「源氏、そりゃ冷たくされるわ.....」と理解出来てしまうのである。
ただ一方的に源氏の株を下げるのは心が痛むので弁解もしよう。
源氏は己の美貌を最大に利用して女性を見るとひょいひょいと手を出すのは当時の時代を考慮したとしても「なんて軽い奴なんだ」とまぁ引くには引くが、手を出した女性達は誰も捨てることなくきちんと保護し定期的に家に通っているのだ。きっちり最後まで責任を持つ姿だけは源氏の素晴らしい部分であり好感を持てるだろう。
源氏物語に出てくる男性キャラは今の時代からすると総じてクズ男である。しかし当時の倫理観からすると一夫多妻でこれが普通だったのであり、現代の価値観や倫理観で見てはいけないことを注意したい。そう思いつつも紫式部はやはりどこか男性キャラに対して少し辛辣な描き方をしているように思えてならない。唯一男性キャラであるのに、不憫で可哀想だと応援したくなるのが第三部(宇治十帖)の主人公である薫であろう。
源氏が表舞台の陽の主人公だとすれば、薫は陰の主人公と言える。薫の出生の秘密は第二部最大の見せ場であると思うが、源氏の実の息子ではない、不義の息子に当たる薫が源氏の対照的なキャラクターとして降臨するのが憎く、そして面白いところである。
枠外で「作者も知らない」とか普通に書いちゃう紫式部が可愛い
作品の完成度が高い源氏物語。
1000年も昔の作品だが、現代の小説と並べてもストーリーの面白さに遜色がない。
小説としても面白いのだが、源氏物語は偶に雑な作者の本音みたいなのがあってこれがまた辛辣で笑えるのだ。
「これ以上書くのは源氏が可哀想だから割愛する」とか「詳しく書きたいけど作者は頭が痛いからこれくらいにする」とかである。コマの外に作者の本音が書かれてた昔の漫画の文化はここから始まったのかと思われる程あけすけに赤裸々にぶっちゃけている。
作者のこうした吐露は漫画雑誌の巻末にある「今週の作者コメント」を読んでいるかのようだ。「こんなことがあったようだが詳しくは作者も知らない」とか「ここで歌が詠まれたが特に書くべきようなクオリティーでもないからもうここでは書かない」とか普通に言っちゃうのだ。思わず吹き出してしまう。
何だこれ可愛い。現代で言う「知らんけど」みたいな投げやりな作者の苦悩が滲み出ているのかもしれない。知らんけど。
優柔不断な主人公像はシンジ君発祥ではなく、宇治十帖の主人公の薫
薫という主人公にも触れておこう。
薫は当時からすれば特殊で稀有な存在である。男としては優柔不断で卑屈であり、表舞台には似つかわしくない性格の持ち主だ。
自分の出生に疑問を持ち、本人も影で生きていくことを望んでおりこの世を捨てたいと早くから出家を希望するが、それが許されない自分の立場に苦悩し、愛した女性とは死別するなどとにかく不憫で可哀想なキャラクターなのである。
自分はひっそりと影で生きたいと願いつつも、美しい美貌と音楽の才能、そして自身から自然と香り出す美しい薫りに人々は彼のことを「薫」と呼ぶ。今でいう典型的な闇属性で不思議と人を惹きつける人物像だ。
優柔不断で闇属性の主人公はエヴァンゲリオンのシンジ君発祥かなと勝手に思っていたが、「いや、1000年前から居たわ」と思わず呟いたものである。
薫は源氏の実の息子ではない。
源氏が最後に娶った親子ほども離れた若い妻である女三宮。彼女に惚れた柏木(源氏の息子夕霧の幼なじみ)が源氏の留守中に彼女と無理やり関係を持って出来た不義の子が薫だ。皮肉にも源氏は、過去に自分の父親の妻と関係を持ってしまった自分が、その報復とも思える仕打ちを受けるのである。
源氏自身もそのことを理解し気付いた上で、薫を自分の息子として受け入れるのであった。柏木は自分が犯した罪の重さと源氏からの恨み節を恐れるあまり体調を崩してしまい、そのまま早死にしてしまう。母である女三宮は自分の罪と源氏から愛されないことに嫌気がさして薫を産んですぐに俗世を捨てて出家してしまう。幼なじみと父親の歪な関係性を薄々と察しながらも何も言えなくなる夕霧の苦悩も見ものである。(後に柏木を失って未亡人となった柏木の本来の妻を自分の妻にしてしまう強引さに「おい」と言いたくなる夕霧であるが)
薫は生まれる前から魅惑つきの謎と闇を抱えているのだ。
俗世から早く消えてしまいたいと思い悩む中、美しいと噂の美人姉妹には目もくれず出家をせずに仏教に熱心な姉妹の父を尋ねようと宇治に通うようになる。そして次第にその姉妹との関係から薫の運命が動き出していくのが宇治十帖である。
光源氏を主人公とした源氏物語はエンターテイメントに富んだ物語だとすれば、薫を主人公にした宇治十帖は純文学のようなしっとりとした物語である。この対比、そして女性に対する想いやその結末などが対照的であり、とても似ているのが光源氏と薫なのである。
光源氏の死のシーンは存在しない。書かなかったのか、書けなかったのか最大の謎
源氏物語では源氏が亡くなるシーンは描かれていない。
あ、ここで亡くなったんだなと推察される帖は分かっている。『雲隠れ』という帖だ。
しかしこの雲隠れは帖名だけで本文が無いのだ。本のタイトルだけあって中身は白紙のページしかない。本当に何も無いのだ。今まであった文字や物語が唐突にフッと消えてしまったかのように見えなくなる。この喪失感と突然の戸惑いに読者は「源氏の死」を実感し白紙のページを手にとって死を体験するのである。
書かなかったのか、書けなかったのか。
書いたけれど捨てたのか、読んで悲しんだファンが盗んで紛失してしまったのか。
真相は分からない。
突然死神がやって来て蝋燭の火を消してしまうかのように、源氏がふっと居なくなってしまう。次帖から数年後の第三世代の話にいきなり飛んでしまうのだ。読者はこの唐突な展開に「えっ」と思わず声を出して動揺し唖然とし、そして放心状態のまま白紙のページを見つめるしかないのだ。
今までひたすらに源氏の生涯を追ってきて、いきなりスッと消えてしまう主人公。このあまりの唐突さに「死」という表現を狙っていたらなら、紫式部はなんと憎らしい作家なのだろう。これほどまでに喪失感を味わう演出は無い。正に雲隠れである。
「あさきゆめみし」という漫画版ではきちんと源氏が亡くなるシーンが補完されて描かれている。私が最初に源氏物語に触れたのがこの漫画版だったことからこれが正史だと思っていたが、原作はそもそもそのシーンすら無いことに衝撃を受けたのだ。
書けなかったのか?書かなかったのか?
紫式部という作家を研究したくなる。
書けなかったのなら作者も人間なのだなと親近感が湧き、重要なのに何故か筆が進まない文に「紫式部でも書けなかったからしょうがない!」と自身の慰めにもなる。
書かなかったのならその発想に憧れと嫉妬の目で見ずにいられない。
真相はどうなのだろう。この謎の余韻もこの作品の魅力とも言えるだろう。
確かにそこにある景色、その美しさ、儚さを見事に表現するもののあはれ
いまの時代は何でもある。スマホも家電も外国の商品だってボタン一つで手に入る時代だ。資本主義国家万歳である。しかし無いものねだりの私は自分が持っていないものが欲しくなる。それが見た目だったり物だったり才能だったり。無いことが当たり前で手に入れたくてもがくのだ。
源氏物語が描く1000年前の平安時代は真逆だ。
何も無い。スマホも家電もない。外国の存在だってまだ殆ど知らない時代だ。
でもどうしてだろう。
紫式部が描く源氏物語の世界では何でも優雅で優しくて少し切なくて鮮やかなのだ。
季節の草花や鳥の囀り、月の満ち欠け。すべて現代でも変わらずあるものなのに、作品の中に出てくる情景は自分でも気付かなかった世界の美しさを映し出してくれる。そしてどこか寂しくて切ないのだ。
夕顔という女性がいる。
光源氏の恋人で大人しくて美しい女性だ。源氏は夕顔と少しでも一緒に居たくて、夜に少し外に出て話そうと夕顔を誘う。その時夕顔はこう言うのだ。
「夜に外に出るのは、月に拐われそうで怖いのでございます」
このシーンを読んだ時はなんと美しい断り方なんだろうと衝撃を受けた。
月に拐われる?竹取物語に影響されてからか?この時代こういう断り文句があるのか?と悶々思いつつ私なら絶対言えない台詞だと悶えた。
現代なら「終電なので帰ります」とか「夜出歩くのは危ないので遠慮します」とか、非常に合理的で説明的な、分かりやすい断り方を普通するよな、『月に拐われそう』なんてそんなメルヘン全開なこと言えないよな、そうだよな!とツラツラと我に返りながらふと物語の時代、平安時代に思いを馳せた。
「月に拐われそうで怖いのでございます」
月にどうやって拐われるのとか全く分からない上に常識ではそうはならんやろと思うこの台詞。だがこの台詞の後ろに隠れた夕顔の女性としての不安がる気持ち、誘いを断ろうと迷っている気持ちはひしひしと伝わってくるのだ。
意味不明な台詞なのに、どうしてすぐに「あ、分かる」と思えてしまうのだろう。そして何故少し切ないような寂しいような気持ちを抱いてしまうのだろう。胸の中にぽたりとインクを零したような、後からじわじわと心に広がってくるこの余韻こそが「もののあはれ」なのだと私は感じた。
源氏物語はこのような台詞が随所に散りばめられている。そして触れる毎に薄く、けれど確実にじわじわとこの余韻を感じてしまうのだ。
世界の多くを知らない、だけど身の回りの美しさと儚さを見事に表現する文章に涙が出る。
文字が美しい、響きが美しい。
とにかく切なくて寂しくて美しいのだ。
これが源氏物語の魅力なのである。
参考文献
源氏物語は原文版、現代語訳版、漫画版、オーディオブック版など数多く出版されている。まずは自分が手に取りやすいものから挑戦してみると面白い。素敵な源氏物語ワールドを堪能して古木良き日本を感じてみてはいかがだろうか。オススメです。
原文
現代語訳版
漫画版
オーディブック版
ダークホースとも思えるオーディオブックで古典文学を聴くのは正直というかかなりオススメしたい。語り手さんの美しい日本語の響きを聴きながら源氏物語を「聴ける」のは大変贅沢である。これぞ古き良き日本だと感動すること必至である。特にこの岡崎さんの語りは最高of最高ですはい。
この記事をきっかけに源氏物語に触れてみる人が一人でも増えれば本望です。ありがとうございました。