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モンダスに住む:アーシュラ・K・ル=グィン『夜の言葉』

伝えることが出来ないこともあるんだなと思う。そう思うようになったのは、もうずいぶんと前のことだ。

ル=グウィンは、ロード・ダンセイニの作品中の《内陸》(イナー・ランド)を「わたしの故郷」と呼ぶ。ル=グウィンと私とは、時代も環境も世界観も異なるけれど、もしかしたら同郷かもしれない。

ル=グウィンの「夜の言葉」の「モンダスに住む」にこんな一節がある。

 ある種の科学的気質(踏査的・統合的気質)とファンタージー好きな気質とのあいだにはなにか関連がないのだろうかとわたしは思ったことがある。たぶん、"サイエンス・フィクション"という名称は、わたしたちの手がけるジャンルに対して、つまるところそう悪い名称でもないのだろう。ファンタジーを嫌う人間が、科学に対しても同じように退屈や嫌悪感を抱くことがしばしばある。こういう人間は、ホビットも恒星状天体(クエイサー)も好きではない。どうも相性が悪いのだ。複雑なこと、遠く隔たったものはどうでもよいのだ。ファンタジーと科学とのあいだになんらかの関係があるとすれば、それはきっと根本的に審美的なものであろう。

「見つめる眼」ではトールキンを引用しながらこんなことを言っている。

 トールキンの人生はこれほどにも充実していました。その終わりに際し、嘆き悲しんでいるのは正しいこととは思われません。ただ、この本の最後にきたとき私は顔をこわばらせしかめ面をして、小さなテッドにわたしがおしまいの数行を読みながら涙を浮かべていることに気づかれないようにしなければならないでしょう。
 いよいよ家路につきますと、家のなかには黄色い明かりがまたたき、暖炉の火が燃え、夕食の支度が整って、彼の帰宅が待たれていました。そしてローズが彼をなかに迎え入れて、椅子にすわらせ、その膝に小さなエラノールをのせました。
 彼はほーっとひとつ深い息をつきました。「いま、帰っただよ」と、彼は言いました。

もっとも、ル=グウィンは私と違って、退却系ではまったくない。

 つまるところ、自由は野放しとはちがいます。想像力(イマジネーション)の鍛錬は科学にとっても芸術にとっても不可欠な技巧であり、方法であります。

この基準からすると、なんとなく「逃げるは恥だが役に立つ」を観てしまう私はすっかり退却系だ。

それはそれ。

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