歳時記を旅する 23〔春浅し〕前 *春浅し櫓も舵もなき笹の舟
土生 重次
(昭和五十九年作、『扉』)
長野県を流れる千曲川の右岸、小諸駅から西方にある旅館「中棚荘」に泊まったことがある。
島崎藤村の「千曲川旅情の歌」(『落梅集』所収)に、「岸近き宿」とある宿のことで、藤村はここに足しげく通っていた。
藤村は明治三十二年、小諸義塾(私塾)に英語と国語の教師として赴任し、足掛け七年ほどを小諸で過ごした。
「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」と自らに問い、小諸で結婚し子供を儲け文学者となる決意をした。
「千曲川柳霞みて/春浅く水流れたり/ただひとり岩をめぐりて/この岸に愁を繋ぐ」。
この早春の詩も、迷いから決意に至る心情を映していると思えなくもない。
句は、自らの力で進むことも曲がることもできない笹舟が、流されている危うさをいう。
時間という川の流れの中で、春はもう始まっているのに。
(岡田 耕)
(俳句雑誌『風友』令和四年二月号 「風の軌跡―重次俳句の系譜―」)