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人生は山をも背景とし、山の民は山に焦がれ続ける/『帰れない山』(フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン、 シャルロッテ・ファンデルメールシュ)

昨年、パオロ・コニェッティ著「帰れない山」を、浅間山の麓の北軽井沢で暮らす人から借りた。世界的なベストセラーになったというイタリアのその小説が彼女にとってとても大切なものだということは借りた時点でわかったが、読み進めるごとに、町で生まれ山に焦がれたピエトロと、山に生まれ山で生ききったブルーノの子ども時代から別れに至るまでの物語に魅了された。磨かれた文章は森の香りや川の瑞々しさ、人知及ばぬ山の慈悲無慈悲を書いており、個人的にはそれが過去噴火を繰り返し活火山との暮らしが日常となっている浅間山とも結びついて、忘れ難い小説になった。

その小説が映画化され、シネマテークたかさきで上映されていると知り、当然のように足を運んだ。ある程度の映画好きとしてまず驚いたのは、映画『帰れない山』がスタンダードサイズ(4:3)で作られているということだった。これはいわゆる「昔のブラウン管テレビ」と近い縦横サイズで、映画を映画とたらしめる横長のビスタサイズやシネスコサイズとは違うサイズである。映画がとても良かったので気になって「帰れない山 スタンダードサイズ」で検索すると、「せっかく雄大な山々を描いているのに、スタンダードサイズで横幅が削られているのがもったいなかった」という感想を幾つか見つけた。けれど僕はこのスタンダードサイズが「とても正しく、誠実だ」と思った。

そう思った理由を述べるには、この映画の物語についても少し説明せねばならない。町っこのピエトロ少年は、山好きだった父の影響で母と共に夏の間だけ北イタリアのモンテ・ローザ山麓を訪れるようになる。そこで出会ったのが、山を生活の場とし山遊びも熟知したブルーノ少年だ。2人は友情を育み、ピエトロ父と共に3人で雪山登山もしたりする。小説ではその雪山での「高山病にかかり雪山登頂を成せなかったピエトロ少年が、逞しいブルーノ少年と実父との山で生まれた親密さに嫉妬する」ような細かい描写も丁寧に描かれるのだが、映画ではそれら主要場面は描かれつつ、小説がもつ長大な物語をいかに映画として抽出するかに苦心したような場面も見受けられた。

小説では、ピエトロの一人称として、ジャンルとしては「私小説」として長期に渡る年月が書かれる。父との確執や母との関係、そして人生で前にも後にもただ1人の友人と言っても過言ではない、ブルーノとの友情の深まりや断絶が積み重ねられていく。そして映画は、忠実かつ誠実に小説が持つ世界観を映像化していたように思う。全ての場面にはピエトロがいて、彼がいない世界は描かれない。そして「この映画は山が主役の映画ではなく、ピエトロが見た彼の人生を描いている」という私小説感を表現をするにあたり、視野が狭いスタンダートサイズは最も適したものであると、僕個人には思えた。そのサイズであっても山は雄大であり綺麗であり過酷であるが、映画で観た印象としては常に「人」に中心が保たれた映画であった。そしてそのことは「人ひとりの人生において、どんな雄大な山でさえも背景になるくらい、人生というものは広くて深い」ということを提示しているように感じた。

けれどそれは「どんな雄大な山であってもちっぽけだ」ということとイコールではない。むしろ、ピエトロも、その父も、この映画で「山の民」という名称で度々語られるチベットの人々も含めた山を生活の場とする人たちにとっても、何より山にしか生き場所がなかったブルーノにとっては、山は他のものとは替えが効かない唯一のものであった。当然、金や地位や名誉では(残酷なことに家族であっても)替えが効かない。であるからこそ、この小説は、この映画は、「人生を読んだ、人生を観た」という充足感と同じくらいに「人間にとって山とは?」という疑問符を読者に、鑑賞者に残す。それらは総じて、素晴らしい体験であった。

小説「帰れない山」amazon

映画『帰れない山』HP
https://www.cetera.co.jp/theeightmountains/

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