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「スタンフォード教授の心が軽くなる先延ばし思考」読書感想文

いつも読めるアテがないのに、毎回10冊まで図書館の本を借りている。
その中に3冊ほど、自分の興味の範囲外のものを混ぜるのが通例で、今回はその中から読書感想文を書くことになった。

内容は、2011年にイグノーベル賞を受賞した「構造化された先延ばし」というエッセイに、著者が関連した内容を追記したものである。

ぶっちゃけ、第1章7頁のエッセイ部分だけで十分完結している。なんなら元の記事は無料で読める(英文なのでGoogle翻訳かけるなどしてください)

しかし、アマゾンでも中古でしか出回っていないということは、図書館で気楽に手に取るしか経路がほぼ無かったわけで…そう思うと、貴重な出会いだったと思える。4日で読み終わった。

本の要旨は「最も重要な作業に気が乗らないなら、先延ばしして、代わりにそこまで重要じゃない作業をやっておこう」ということに尽きる。

自分も無意識にやっていたことではあるが、それを自覚的に容認する。ということは、誰かに言われるまではできなかった。先延ばしには、いつでも強い後ろめたさが伴い、その心理的負担が、先延ばしと危機的状況の発生を助長させていた。

この本を読むことで(というかエッセイの冒頭を読み始めただけで)「なるほどね」と、憑き物が落ちたような気がした。

本の内容紹介がもう終わってしまったので、以下の文章を、半ば随想として残す。

強制力と主体性

特に仕事に限らず、多くのやるべきことと、やりたいこととが拮抗している人間にとって、正しい優先順位というものは、ほとんどいつでも敵対関係にある。

そして「一番やらなければいけないこと」には共通の性質がある。たとえば

  • 自分の中だけで完結せず、相手がある

  • 期限が差し迫っており、それを過ぎると社会的な問題が発生する

こうした性質が生み出す強制力は、原理的に自主性と相反するため、両者がせめぎ合う領域には、境界線のようなものが形成されている。

その上で、「やらなきゃいけないのでやる」とき、大きく消耗する場合と、特に負担なくできる場合とがある。これは自主性が、強制力をどこまで許容できるかの差ではないかと考えている。

望ましい横跳びを選ぶ

ほとんど常に、自主性は強制力につよく反発する一方で、私たちはこの反発によって生じる境界線を「横に跳ぶ」ことができる。これが脱線であり、先延ばしと呼ばれている行為である。

今しなくていいこと、たとえば溜まったメモの整理、楽器の練習、期限のない読書。これらを実行することで、自主性は満たされる。もちろん進捗は出ないので、最優先タスクの強制力は解消されないまま、圧をかけ続けてはいる。

ところで、この横跳びの着地先が、別の強制力の解消に通じるのであればどうか?まだ期限に余裕がある仕事が、脱線として実行されて期限の前に終わっていたら?

businessman jumping horizontally for his many works with smile

そして、最も重要な案件を最終的には必死に終わらせた後、あるいは突然作業が無くなったりした後に残るのは、なんと先延ばしとは真逆の、前倒しの進捗である。

すると次の最重要タスクについても、強制力が無視できるほど弱まった、自由な自主性の発揮される状況がある。これを好循環につなげることができる(こともある)

結局やることはやる

「一番やらなければいけないこと以外をやれるなら、なんでもいい」という精神状態を肯定し、実際その通りに行為して、翌日には「さすがにやらないと」と思うことができるなら、これはまあまあ望ましい自主性の発揮でもある。

この現象には、本書であまり指摘されなかった点として、休息の重要性が関わっていると思った。経験上、最も重要なタスクに着手するためには、まず極端な休養を取り、コンディションを最良にする必要がある。


businessman sleep on the bed in his office at noon

横跳びによって生まれた余裕を、まずここに注ぐ。あるいは、環境の整備を横跳びとして行う(試験直前の部屋の掃除は、そういう意味では理にかなっている)ことで、先延ばしにした最重要タスクを蔑ろのままにはしない。ここまで含めて「構造化」ではないかという気もする。

オーバーキルすな

これは余談だけど、エッセイ部分だけで十分、と最初に書いたのは、それに続く追記部分が、あきらかに「先延ばしにしたまま期限を過ぎたので慌てて書いた原稿」という感じだからである。

オススメの音楽を紹介する章などは、とにかく文字数を稼がなくてはという焦りすら伝わってくる。これは手の内を明かしてくれたからこそ分かることなので、まずもって本人が先延ばしを肯定して実践している様子には、勇気をもらえる(?)

ただ、第9章では公開されたエッセイに対する批判のメールへの回答を行っているのだが、ここだけ毛並みが違う。そういえばスタンフォード大学の哲学科名誉教授である著者が、感情的な反論に対して、ゴリゴリのロジックを展開して答えている。

とっても真摯というか、大人げなくてほほえましいというか…やっぱりその道の人は斯く在れかしと思う。


たしかかつて、誰かが似たような話をしていた記憶があったが、森博嗣だった

この本自体は「そりゃあんたが天才だからでしょ」と言いたくなる内容が多いが、もしかするとこの「構造化された先延ばし」に近いことを言っていたのかもしれない。

こうしたエッセイが2011年のイグノーベル賞を受賞したということは、こんな風に「みんながなんとなくやっているけど言及されていないこと」を言い当てたことが評価されたのだろう。いいことだ。


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