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【食文化】醤油の話:歴史編(2)~日本の醤油について
先日、食べに行った醬油ラーメンの話から、
「醤油」という調味料に断然興味が湧いてしまいました😅。
今回は、醤油の歴史(2)~日本の醤油について、書いていきます。
前回の記事はコチラ ▼▼▼
1. 日本にやって来た「醤」
海に囲まれた日本では、古く縄文時代から、食糧であった魚介類を保存するための「塩漬け」が作られてきました。
塩を使って、水分を抜いてやることで、腐敗を防ぐと同時に、タンパク質が分解され、塩味と旨味が程よくミックスされた「魚醤」が出来上がります。
縄文時代の遺跡からは、保存食である熟鮨(魚醤)の原型が出土しています。
一方、約1万前に中国の長江流域で始まった稲作は、
今から約3,000年前の紀元前10世紀頃、日本の九州に伝わったのが最初とされています。
その後、稲作は日本各地に広まっていき、
紀元前4世紀(紀元前400年~紀元前301年)頃には
本州の北端まで伝わりました。
この頃、稲作と同時に弥生式土器が使用されるようになり、稲作を中心とする定住文化である、
弥生時代が始まります。
弥生時代は3世紀(西暦200年~300年)頃までおよそ700年もの間、続きますが、この頃、鉄器や大豆、小麦の栽培が伝わったとされます。
その後、日本は古墳時代を迎え、
日本各地で多くの古墳が作られるようになり、
「古代ヤマト王朝」が始まります。
この古墳時代、6世紀の中頃、「仏教」が日本に伝来したとされます。
この時代、仏教と同時に、大豆を加工する「醬」の製造方法が伝わったとされています。
続く飛鳥時代には、
「醬」と記された木簡が発見されています。
飛鳥時代に活躍した聖徳大使は、仏教を推奨し、遣隋使を派遣するなど、中国大陸との交流を積極的に行いました。
この遣隋使によって、政治や文化と同時に、新たな「食文化」が日本に伝わります、
この仏教と外来文化の影響で、日本では次第に「魚醤」から、豆や穀物から作る「穀醤」が食されるようになっていきます。
仏教の殺生禁止という教えを守るための菜食に「穀醤」は絶好の味付けだったのかもしれません。
2. 朝廷の高級品の調味料「醤」
飛鳥時代の末期、701年に制定された
日本初の法典「大宝律令」では、
朝廷で使う「醤」の製造が制度化されています。
朝廷の食事を取り扱う「大膳職」の下に、醤の製造を管理する「醤院」という部署が設けられました。
国を挙げて「醤」作りに取り組んだのです😶。
当時の「醤」は、高級品であり、貴重な調味料でした。
「醤」は高級官僚の給与に用いられたり、その原料となる大豆類は、米に変わる租税の一部として納められるほどでした。
奈良時代には、
遣唐使によって様々な中国文化が伝えられ、
「醤」を使った発酵食品が急速に発展していきます。
「醤」の種類も増え、
中国から来たものは「唐醤」、
朝鮮半島から来たものは「高麗醤」
と呼ばれました。
これらが現在の「醤油」「味噌」のルーツとされます。
奈良時代の「万葉集」の中にも
宮廷の宴席を詠んだ歌の中に「醤」を扱った作品があります。
『醤酢に 蒜 搗き合てて
鯛 願ふ われにな見えそ 水葱の羮』
長 忌寸 意吉麻呂
(訳)
醤と酢に 蒜(ニンニク)をまぜ合わせて
鯛を 食べたいと願っている私に、
水葱の羮(汁料理)を見せないでほしい。
食の悩みはいつの世も深刻だったみたいですね😅
平安時代になると、
「醤」の製造技術も進み、ペースト状になったものが作られるようになります。
宮中貴族の饗宴では、
鯛、鯉、鱒、蛸、雉などの食材が振る舞われ、
手元にある4種類の調味料
「酢」「塩」「醤」「酒」に
食材を浸し、好みの味付けにして食べていたとされます。
この4種類の調味料は、「四種器」と呼ばれ
大変貴重であったとされています。
一方、当時の庶民の味付けは、「塩」か「酢」であったとされています。
こうして、「穀醤」は、日本に受け入れられ、定着していきます。
中国から伝えられた「穀醤」は、やがて、日本風に改良が加えられ、最終的には日本独自の調味料である「醤油」が生まれてくることになるのです。
3. 醤油の発祥は、鎌倉時代
平安時代の後半、
土地の私有が全国的に広がると、人々は自分の土地を守るために武装するようになります。
このように武装した集団が「武士」と呼ばれるようになっていきます。
武士は自分の土地を守るために、戦っていくようになります。
鎌倉時代になると、
日本でも農具の改良や肥料の使用などで、農作物の生産性が向上しました。
武士が守った、自分の土地が発展して、たくさんの作物が穫れるようになっていった訳です。
鎌倉時代の1254年、
中国(宋)で修業した禅僧、覚心が
中国の径山寺で学んだ醸造法を
紀州の由良(和歌山県湯浅町)にある興国時で教えたのが
「金山寺味噌」の始まりとされています。
これは、大豆に麦麹を合わせ、瓜や茄子、キュウリなどの野菜を混ぜて桶に入れ、塩水を加えて発酵させた保存食。
これが「径山寺(金山寺)味噌」です。
「なめ味噌」や「おかず味噌」と呼ばれ、食べる味噌とされています。
この味噌を作る過程で、野菜から出た水分は、麹カビの腐る原因としてそれまで捨てられていましたが、ある時間違えて、水を入れすぎてしまいました。
この味噌桶の底に溜まった水分を舐めてみると、案外美味しい。
それで、この「上澄み液」で野菜を煮てみると、実に旨い。
漬け物にかけてみると、旨みが増す。
この汁が、「溜まり」と呼ばれる、醤油の原型です。
これが「溜まり醬油」の「溜まり」という訳です。
やがて、この「金山寺味噌」を作る過程で発生した「溜まり」を調理に使うようになり、
紀州の湯浅が、醤油発祥の地
と言われるようになっていくのです。
現在でも、この「溜まり醤油」は、愛知、岐阜、三重で製造されています。
その後、室町時代に入り
現在の「醤油」に近いものが造られるようになっていきます。
4. 醤油の種類
話はいきなり現代に飛びますが、
現在の日本農林規格(JAS)によると
醤油は、原料や製造方法によって下記の5つに分類されます
①濃口醤油
②淡口醤油
③溜醤油
④再仕込醤油
⑤白醬油
この5種類の中の③「溜醤油」が
一番最初の醤油だった訳です、
この記事の初めに書いた、ラーメン店の醤油ラーメンが3種類あったという話、
淡口醤油ラーメン
たまり醬油ラーメン
白たまり醬油ラーメン
それぞれのラーメンが、どんな醤油を使ったラーメンなのかを調べている内に
話がドンドン長くなっていきました。
何となく、「たまり醤油ラーメン」の「たまり」が理解できましたね😅。
当初、このnoteの書き出しは
醤油には5種類あります。
濃口醤油は、原料が○○で、△△な醤油、
淡口醤油は……
といった具合に書いてみたのですが、
書いてる本人にもよくわからない(';')??
醤油を起源から丹念に辿っていくことで、
ようやく醬油のことがボンヤリと分かってきました。
醤油は面白い😸
次回以降も引き続き、醤油の歴史から、原材料など
醤油の秘密を解き明かしていきます。
今回も長くなり恐縮です。
m(_ _)m
それでは、また😉
(つづく)
(2023年9月21日投稿)
つづきはコチラ
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