見出し画像

【食文化】醤油の話:歴史編(4)~関東醤油と醤油文化

現代の感覚では、関東は濃い味付けの「醤油文化圏」関西は薄い味付けの「出汁文化圏」という印象があります。

しかしながら、前回までの通り、「醤油」は元々、関西圏で育まれてきたもの。
それがどのような経緯で、関東が主流になっていったのでしょうか?
「醤油の話:歴史編」、最終回はその辺りの話となります。

第1回の記事はコチラ ▼▼▼

第2回の記事はコチラ ▼▼▼

第3回の記事はコチラ ▼▼▼



1. 関東の濃口こいくち醤油の台頭


関東で醤油作りが始まったのは、
戦国時代の永禄年間。
下総国しもうさのくに(現千葉県)の野田で、飯田市郎兵衛の先祖が、甲斐の武田氏に溜まり醤油を納めたのが最初とされます。
ちょうど、織田信長が今川義元を破った「桶狭間の戦い」の頃の話ですね。

徳川家康が江戸幕府を開いた頃(1603年)、
醤油の供給の大半は上方が担っていました。

この時代の醤油の代表的な産地は、
紀州の湯浅、播州の龍野、瀬戸内海の小豆島などでしたが、江戸で使われる醤油の7割以上が上方から船で運ばれる「下り醤油」でした。
当然輸送コストがかかるため、価格も高騰し、醤油は庶民には手の出ない贅沢品でした。

一方、関東の醤油は「地廻り醤油」と呼ばれ、関西の醤油より一段品質が落ちるとされていました。

しかし、やがて漁船の集まる銚子港に、漁民の手で紀州湯浅の醤油の製法がもたらされます。

下総国(千葉)の銚子野田は、醤油を作るのに気候が適していた上、周辺には、醤油の原料となる大豆・小麦を産出する平野が開けていました。
また、利根川や江戸川を利用して、江戸に向けての輸送にも便利な地でもあったため、関東の醤油生産地として発展していきます。

寛永17年(1640年)、三代将軍・徳川家光の頃、
江戸川が開削。
野田から日本橋の河岸まで、船で1日の行程となり、1艘の高瀬舟で1,000樽の醤油を江戸に運べるようになり、江戸っ子の好みに合う醤油が、供給されるようになります。

この頃、関東で作られていた醤油は
主に大豆を原料とする「溜まり醤油」でした。
その後、江戸庶民の嗜好に合わせ、大豆と小麦を多用し、醸造期間を1年以上に延ばした、香りの強い「濃口醤油」が作られていくようになります。

熟成期間も長く、強い香りがするこの「濃口醤油」は、塩味に加え、旨味、甘味、酸味、苦味がバランスよく取れていて、コクとキレのある多様な味で構成されています。

この「関東地回り醤油」は、新鮮な江戸前の魚介類との相性も良く「江戸の味」に欠かせない存在になっていきます。

なお、現在の日本の醤油の三大ブランド
キッコーマン(野田)、ヒゲタ醤油(銚子)は、
関東(千葉)が発祥。
ヤマサ醤油は、関西(和歌山)から関東(銚子)にやって来たとされます。

(キッコーマンHPより引用)



2. 江戸の食・四天王と醤油


江戸という町は、日本の中心都市としてますます発展していきます。
特に「参勤交代」で、地方から参上した家来衆や、都市建設のために全国各地から集められた職人など、江戸の人口構成は、男性が多い社会でした。

このため、食事を取る場として、
小料理屋や屋台、そば屋などが大いに賑わいます。

また、労働で汗を流した人々は、塩味が効いて濃い味つけのものを好みます。
そのため醬油も、関西の「下り醤油」よりも、関東で作られる、より濃厚な「濃口醤油」が好まれるようになっていきます。

江戸が栄えて大都市になっていくにつれ、関東の醤油業も盛んになっていき、かつては「下り醤油」よりも格下とされた関東の「地廻り醤油」は品質も向上されていきます。
銚子と野田は、醤油の名産地として広く知られるようになります。

江戸時代の後期(1800年代)には、江戸で使う醤油のほとんどが、関西産ではなく、関東産で占められました。

なお、関東の「濃口醤油」は、上方の「下り醤油」に比べて「旨味成分(グルタミン酸)」が多いとされています。
実はこれには、「水」の影響が大いに関連しています。

京・大坂を中心とする上方の水は「軟水」が多く、
逆に、江戸など関東の水は、ほとんどが「硬水」です。
「硬水」とは水の中に含まれるミネラル分が多い水を差すのですが、
昆布などから出汁が引きずらいという特徴を持っています。

上方の「軟水」は出汁がよく引けるので、
食材本来の味を楽しむために、薄味の醤油が好まれるようになります。
ところが、関東の「硬水」は、出汁が引けないので
その代わりに、醤油に含まれる「旨味成分」でこれを補ったとされます。
このため、「下り醤油」に比べて濃厚な味わいの「濃口」が好まれたという訳です。

関東と関西、味付けの違いは、気候風土や水が大いに関係していたのです。

更に、この濃口醤油は、江戸の名物料理の発展に大きく寄与しています。

「江戸の食・四天王」と呼ばれる「うなぎ、すし、てんぷら、そば」
いずれも、関東の「濃口醤油」が味の決め手になっています。

この「濃口醤油」「かつお節」「みりん」が加わることで、
江戸独自の食文化が育まれていきます。

「うなぎの蒲焼き」には、醤油とみりんで作る
タレ
「すし」には、醤油とみりんで作る
ツメ(煮詰め)、
そして「てんぷら」「そば」には、
かつお節で引いた出汁に、醤油とみりんで作った
カエシを加えて作るツユ。

それぞれが、料理の味を引き立てる名脇役として、江戸の味を大いに盛り上げていくのです。


3. 関西の出汁文化と醤油


一方、上方の播州・龍野では、寛文6年(1666年)に、それまでの醤油とは違う淡口うすくち醤油」が醸造されます。

龍野藩の藩主・脇坂安政は、この淡口醤油の増産に力を入れます。

大坂や京といった大消費地を抱える上方には、競合する醤油生産地が数多く存在しています。
醤油発祥の地とされる、紀州湯浅を領する徳川御三家の紀州藩は、藩の財政を支える重要な産業として醤油業を支えており、
大坂の堺や西宮、瀬戸内海の小豆島でも、醤油の名産地として、上質な醤油を生産していました。

そこで、藩主の脇坂候は、自らの藩で醸造される淡口醤油の差別化を図るため、淡口醤油の醸造を龍野に限定し、生産を奨励します。

やがて、この淡口醤油は、京都の懐石料理や精進料理で使われるようになっていきます。
この頃、北海道産の昆布が、北前船によって大量に上方に届けられるようになります。
この、素材の味を引き立てる淡口醤油と昆布出汁の相性は非常に良く、鰹節と共に、素材の持ち味や色を大切にする、関西の「出汁文化圏」の構築に欠かせない存在となっていくのです。

関西の「出汁」の話は、コチラでも書いてます
  ▼▼



4. 改めて、醤油の種類について


古くから日本各地で生産されてきた醤油は、
それぞれの地域の嗜好や醸造の歴史などにより、様々な個性を持っています。

現在、醤油の種類は、
日本農林規格(JAS)によって、
①濃口(こいくち)
②淡口(うすくち)
③溜まり(たまり)
④再仕込み
⑤白醬油

の5つに分類されています。

濃口こいくち醤油
濃口醤油は、全国の醤油出荷量の約85%を占める、最も一般的な醤油です。
塩味のほかに、深いうま味、まろやかな甘味、さわやかな酸味、味をひきしめる苦味を合わせ持っています。
調理用・卓上用どちらにも幅広く使える、まさに万能調味料です。

淡口うすくち醤油
関西(龍野)で生まれた色の淡い醤油です。
発酵と熟成を緩やかにさせる食塩を、濃口より約1割ほど多く使用。
食材の持ち味を生かすために、色や香りを抑えた醤油です。

まり醤油
溜まり醤油は、歴史的に最も古い醤油とされます。
主に中部地方で、豆味噌と共に作られています。
濃口や淡口が、大豆と小麦を使用するのに対し、溜まりは主に大豆を原料とし、トロ味と、濃厚な旨味、独特な香りが特徴的な色の濃い醤油です。
古くから「さしみたまり」と呼ばれるように、寿司、刺身などに適するほか、加熱するときれいな赤みが出るため、照り焼きなどの調理用としても使われています。

再仕込さいしこみ醤油
再仕込み醤油は、山口県柳井地方で生まれ、山陰から北九州地方にかけて多く作られてきました。
他の醤油が「麹」を食塩水で仕込むのに対し「生揚げ醤油」で仕込むため「再仕込み」と呼ばれています。
醬油を更に醬油で仕込むという贅沢な醸造を行います。
色・味・香りとも濃厚で、別名「甘露醤油」とも呼ばれ、刺身、寿司、冷奴など、主に卓上で使われています。

⑤白醤油
白醬油は、愛知県碧南市で生まれた、醤油の中で最も色の淡い琥珀色をした醤油です。
他の醤油と異なり、大豆を少量に抑え、小麦を主原料としており、熟成期間は短く、味は淡白ながら甘味が強く、独特の香りがあります。
素材を活かすための醤油と言えます。

この5種類の醤油は、
どれも原料は「大豆」「小麦」「塩」「水」「麹」
で作られています。

味の違いを作るのは「大豆:小麦」の比率と「仕込み期間」。
「大豆が多く、仕込み期間が長い」「濃色・コクとうま味系」に、
逆に
「小麦が多く、仕込み期間が短い」「淡色・塩分と甘味系」なります。

濃厚で、コクのある醤油から順に並べてみると
下記の通りになります。

①溜まり醤油(最も濃厚)
  ↓
②再仕込み醤油
  ↓
③濃口醤油
  ↓
④淡口醤油
  ↓
⑤白醤油(最も淡麗)

最も濃厚な「溜まり醤油」と、最も淡麗な「白醬油」、どちらも愛知産というのが面白いですね。
実はこのふたつ、全く別物のようですごく似ています。
こちらはどちらも「たまり」。
そもそも愛知では、いわゆる醤油を「醤油」と呼ばず、「たまり」と呼ぶのがスタンダードなんだそうです。



5. 明治以降の醤油について


明治維新と共に、醤油文化は我々の生活にとって身近な存在となっていった
訳ではありませんでした💦

庶民にとって醤油はまだまだ贅沢な調味料。
一般家庭では依然として「味噌」が主な調味料であり、醤油の代わりに「味噌」由来の「たまり」が使用されていました。

富山県の農村(上市町)の例では、庶民は正月や祭礼時に1合 ~ 2合買う程度であり、村の店では、醸造元から仕入れた3升の醤油を、何か月もかけねば売れなかった。

(Wikipedia 「醤油」参照)

更に、生活必需品である事に目をつけた明治政府は、明治18年(1885年)、軍備拡張の財源確保のため「醤油税」を創設します!
これは、大正15年(1926年)まで続いたというから驚きです。

大正時代に入ると、食生活の洋風化など、「食」自体に大きな変化が訪れ、ようやく醤油の使用量は増加していきます。
昭和の初期には、一般家庭でも醤油を一升買いするようになります。

大正7年(1918年)、第一次世界大戦が終了した頃、日本も好景気に沸いており、醤油メーカーも近代的な大量生産体制に移行していきます。

その後、第二次世界大戦が勃発。
醤油は味噌とともに統制物資の対象となり、配給規制を受けることになります。

終戦後は、原料となる大豆の確保にも苦心し、あわや、醤油消滅の危機もあったそうですが、何とか危機を乗り越え、現在、日本の醤油は、世界に誇る調味料となっていったのです。



と、長々と醤油の歴史について書いてみました。
知らないことばかりですね🫢

第1回にも書いてますが
元々、ラーメンを食べに行ったら
「淡口」「たまり」「白たまり」といった3種類の醤油ラーメンが用意されていて、
どれがどう違うのか、調べているうちに、すっかり醬油の魅力にハマってしまった次第です😅。

つまりこちらのお店の醤油ラーメンは、
出汁の旨味を楽しめる「淡口醤油ラーメン」
濃厚な旨味を楽しめる「たまり醤油ラーメン」
香りと甘味を楽しめる「白たまり醬油ラーメン」

の3種類を用意していると言うことなんですね🍜

なるほど、どれも旨そうです♡

こうして、醬油の違いが理解できると、食の楽しさが更に広がっていきますね😸

醬油ラーメンや和食を食べる際の参考にしていただけると幸いです💁🏻。

(醤油の食べ比べギフト)
   ▼


今回も長くなり恐縮ですm(_ _)m

最後までお読みいただきありがとうございました♪

(2023年9月24日投稿)

つづきはコチラ
 ▼▼▼


この記事が参加している募集

この記事が役に立ったという方は、ぜひサポートをお願いします。 今後より一層お役に立てる記事にするための経費や資料代として活用させていただきます。