#74『24人のビリー・ミリガン』ダニエル・キイス
20年以上ぶりに再読した。あまりにも衝撃的な話なので大体のことは覚えていたが、若造であった当時の自分には分からなかったものも今回は感じた。
それは何か? この多重人格者を処罰することは正しいのか否か、ということ。昔の自分は当たり前のようにこう考えた。「悪いことをしたんだから、処罰されるしかない」。本書でもたびたびビリーの批判者はそう訴える。一方擁護者たちは「彼には犯行時、責任能力がなかった」。
この「犯行時、責任能力がなかった」、これは最近も何かのニュースで目にした。遺族は憤懣やる方ないと思う。何を望むのか?――死刑。勿論、遺族がそう願う気持ちはよく分かる。しかし一方で同時に、事件と何の関係もない人も当たり前のようにこう訴える――死刑、と。
「悪いことをした奴は皆死刑にすればいいんだ」と昔、よく父が言っていた。そういう言葉にそうだそうだと同調したことはないが、その反対に「悪いことをした人にも皆理由があるんだよ。可哀そうな人なんだよ」という言葉を、親から聞いたことはなかった。二つの意見を聞くことによって、内的対話は始まるが、私の場合「悪いことをしたら皆死刑って、それはまた行き過ぎだけどさ…」という地点で思考が停止していた。身内に犯罪の加害者や被害者がいなかったので、そういうことを考える必要もなかった。
思い出すのはアゴタ・クリストフの『ふたりの証拠』で、殺人犯が死刑を宣告される、それに対して言うのが「私を殺すと社会に何の得があるんだろう。私が一人殺した。この上更にもう一つ死体を増やして何の利益があるんだ?」かなり後退した精神状態での独白であるが、一面の真理である。
彼を生かしておいてはならないという主張には二つの動機がある。一つは「示しをつけること」。確かに、大事。もう一つは「復讐の欲求を満たすこと」。この二つが不可分に入り混じっていると思う。
ビリー・ミリガンの生い立ちを読むと、気の毒に感じずにはいられない。彼は徹底的な被害者だった。しかし犯罪者の多くはそうだろうが、人生のある時点で加害者に転じてしまう。そこで人間社会には二つの選択肢がある。加害者に転じた者を罰するか、またはその心の傷を癒やすか。
☆#73『人生は廻る輪のように』においてエイズ患者が迫害されたように、人はまず恐怖によって反応する。そしてその上に「自業自得」とか「当然の報い」というような理屈をまぶす。エイズ患者と多重人格の強姦犯罪者を同列に論じることは出来ないけれど、この世の「普通」に入れなかった人たちを拒絶するのではなく受け入れるためには、まず彼らの個人的なストーリーに耳を傾けなければならない。そうすると彼らのことを「かわいそう」だと思えてくる(ただしそれでもなお気の毒とは決して感じない人々にキューブラー・ロスは直面させられたが…)。全ての協力も処置も罰も、そこから出発しなければ更なる暴力と虐待にしかなり得ない。
以上は理想論である。諸々の法的、物理的、治療的環境の悪さが何役も買っているとは言え、ビリーの人格の分裂ぶりは到底普通の人間の応じられる所ではなく、ごく少数の、経験と情愛の豊かな、賢い人にしか対応も改善も可能とさせない程の狂気を宿している。そのような有能な人たちは言うまでもなく、他の多くの患者も扱わなければいけない。しかし本書を読む限り、ビリーに関わり出したらその狂気に生活の大部分を支配されてしまう。単純に拘束時間が長く、ひとたび暴れ出したら肉体的に全エネルギーを投入してそれに対抗しなければならない。時間、労力、予算の限界を考えると、非常に難しいものを感じざるを得ない。
一方に「だからこそ助けるべき」という人間としての宗教的心情がある。他方に「駄目なんだから閉じ込めるべき(または死刑にすべき)」という考えがある。勿論、前者を採りたい。しかしそのためにはその実現を可能にする環境を用意しなければいけない。法律、施設、人員、費用など、環境を用意するためには社会全体の合意の質を高めていかなくてはならない。道は非常に長い。しかしビリーの存在と本書が、その長い道のりの最初の一歩を大きく進めたことは間違いないだろう。
ノンフィクションであるにもかかわらず本書の展開は、フィクションの#62『アルジャーノンに花束を』と軌を一にしている。ばらばらの状態から統合の高みに向かい、しかしそれを維持することが出来ず再びばらばらに解体していく。ビリー・ミリガンがダニエル・キイスを書き手として選んだことは正に魂の直観だったのだろう。魂は実に、自分がこの先に辿ることになる顛末を知っている。
続編があるようなので、そちらも読んでみる。