シリーズ読書感想文|一冊を精読・整理・思索する|第一回「モダニティと自己アイデンティティ」
はじめに|本について語ります!
こんにちは、吉村うにうにです。普段は、小説、エッセイ、詩、童話などを書いております。ちなみに記事はこんな感じのを書いています。
今回から、不定期的に本を取り上げ、その内容をまとめ、考察したことを述べていきたいと思います。以前からやってみたかった「読書感想文」のようなものです。読書会で発表するつもりです。
構成はこんな感じ
(一)まず、短いまとめから入ります。この記事は、読書会の資料という面もありますので、1000文字以下を目途に、本の紹介、感想を簡単に書きます。これは、読書会で紹介する方向けですので、深掘りよりも、分かりやすさ、魅力の紹介に重点を置きます。「こんな本なんだ」と、ここだけ読んで頂いても嬉しいです。読書会ではこの部分だけを読むつもりです。
(二)つづいて、内容を深めに紹介します(ただし気に入っている点)。ただし、こちらは私の備忘録に近いので、読みやすさを優先しておりません。ただのメモになりそうです。参考程度にしていただければと思います。
(三)最後に、本から学べたことを述べたり、自分の身近な話に例えたり、考察したりします。ここはダラダラ書きますがご容赦ください。「うにうにってこんなことを考えているんだ」というのを共有して頂ければ嬉しいです。「私ならこう考える」と一緒に考えて頂けても嬉しいです。
はじめにと(一)と(さいごに)は敬体で、(二)(三)に関する話は常態で書きます。
(一)と(二)(三)はおそらく被るので、何度も同じワードに出くわしたらごめんなさい。
それでは、第一回の本はこちら
「モダニティと自己アイデンティティ」です。何度も読んだ2023年の私のベスト本ですが、難解なため、まとめや解釈が間違っているかもしれません。
(一)まとめ ⇇お時間のない方はこちらだけ
(二)内容紹介
注:かっこ内は私の解釈や私が考えた具体例が中心。
イントロ(ほぼ本の内容の要約になっている)
モダニティ(後期近代やハイ・モダニティとも呼ばれている)と自己アイデンティティの関係について。本書は、一言で言うと、モダニティと呼ばれる現代が自己をどう変えたかについて語っている。モダニティでは知識はすべて仮説に過ぎず、正しいという保証がなく、リスクは減っているのに新たなリスクについて考えなきゃならない。メディアの力で遠くの出来事が人に影響を与え(媒介された経験と呼ぶ)、抽象システムによって、社会自体が変わり続ける(再帰性)。そんなモダニティの世界で、個人のアイデンティティは再帰性を持たざるを得ず、ライフスタイルを選ばされ、抑圧される。専門知識はすぐに陳腐化され、再び学び直し(再専有)、伝統的な人間関係は、自分の関係性そのものからあるから続く関係に代わる(純粋な関係性)。昔なら経験できたことが個人から切り離され(経験の隔離)、人はリスクのある状況から逃れられるようになる。すると、個人は罪悪感よりも羞恥のメカニズムで行動するようになる。つまり、道徳からは離れた世界となる。道徳から離れた世界では、個人は人生の無意味感に悩まされるようになる。モダニティの抑圧に対して、様々な反動が生じ、その一つが政治的な圧力となって、モダニティに働きかける(ライフポリティックス)。おそらく、それがモダニティの再帰性になり、また個人の自己アイデンティティの再帰性に繋がる。
第一章 ハイ・モダニティの輪郭
モダニティとは、現代の資本主義で産業が発展した国民国家が形成する社会のことで、以下のような三つのダイナミズム(力の源)を持つ。
①時間と空間の分離:時間が場所に縛られない(グローバル化)。例:商品のクレーム電話を掛けたら、海外のオペレーターに繋がった。
②抽象システム(これはA,Bに分けられる)
A)脱埋め込み化:専門化が進み過ぎて細かくなる。(専門)分化という言い方は、良い面しか光を当てていないので、敢えて脱埋め込み化と言う言葉を本書では使っている。例:昔は獣医さんしかいないのに、今は犬と猫は別々の専門医がいる。昔は、医者はどんな患者も診たが、今では手の手術しかしない整形外科医がいる。
B)象徴的通標:通貨などの価値を持った交換メディアが流通する。
③制度的再帰性:社会が新たな知識や情報をもとに継続的に修正を受ける。
脱埋め込み化は制度的再帰性を生み、この変化が個人の実存的困難につながる。印刷と電子メディアは遠くの出来事や知識がすぐ伝播し(時間と空間の分離)、人は培った技術をすぐに失う(脱習熟化)、しかしすぐに再専有する。自己は再帰的プロジェクトとなり、常に更新し続けないといけなくなる。
第二章 自己
自己は幼少時の親から守られた経験によって、存在論的な安心感を持つ。世の中は、学ばないと危険がいっぱいであるにも関わらず(交通事故、労災)保護皮膜が覆われている状態で何も考えずに生きていける。世の中の危険をカッコに入れて過ごす態度を「自然的態度」と呼ぶ。
しかし、この自然的態度は根拠づけられてはいないので、脆弱である。何かしらのきっかけで、実存的な問題(実存、私は何のために生きているか。有限性、自分はやがて死ぬ。他者についての実存、どうして他人の経験を理解するか。自己アイデンティティ、私は何者で、どこからきたのか)が顔を出してくる。普段は存在論的な安心で実存的不安を押さえられているが、一旦顔を出してくると、自分の来歴に自信が持てなくなり、実存のリスクに怯え、自己統合が困難になる。存在論的に安定した人は、常に自己を再帰的に理解し、来歴もしっかりと持ち、保護皮膜で覆われた状態で生きていける。
第三章 自己の軌跡
実存的問題とは:もし三年しか生きられないなら何をすべき? どう振舞う? 誰みたいになるべき? これはモダニティ特有の問題、なぜなら伝統的社会では「個人」は存在しなかったから。
で、実存的問題にはセルフ・セラピーが大切。レイン・ウォーターによるセルフ・セラピーの特徴とは
①自己とは再帰的プロジェクト(つまり更新し続ける)
②自己は過去から未来への発達の軌跡を作る
③自己の再帰性は継続的
④自己アイデンティティはナラティブ(語り)
⑤自己実現は時間をコントロールすること
⑥自己再帰性において、身体は行為システムの一部を作る。(ダイエットやファスティング、伝統的社会ではなかった。)
⑦自己実現は機会とリスクのバランスから理解される
⑧自己実現の道徳的な筋道は真実性(自分に正直である)が基になる。これは、普遍的道徳の外側にある。
⑨ライフ・コースは移行(転機)ばかりしている
⑩自己発達のラインは内的に準拠される(つまり自分で構築しろ)
制度的再帰性があり、抽象システム、時間と空間の再秩序化が進むモダニティでは自己は変化し、何かのライフスタイルを選ぶよう強制される。選択の基準には根拠はない。そこでは、複数の環境が用意され、どれが正解か不確かな中で、「媒介された経験」を参考に、選ぶ。選択の複数性は親密な関係の変容をもたらす。伝統社会では、血縁、地縁といったもので人付き合いを選んでいたが、モダニティではその選択肢の多さゆえに「純粋な関係性」での人付き合いが主流となる。これは、その関係自体から得られるもののために県警が成立していることである。
純粋な関係性の特徴は
①外的要因に繋ぎ留められていない
②パートナーに与えるものためだけに求められる(一緒に居るなら努力必要)
③関係は再帰的(すぐ離婚できる)
④コミットメントが重要(プレゼントとか? 忠誠心を示すもの)
⑤関係は親密性に集中(自立と感情や経験の共有とのバランスと取らないと依存関係になる)
⑥相互信頼は親密の達成と関係している
⑦共有された歴史を創造する。
ライフスタイルが複数ある世界ではライフ・プランニングが重要になる。これは、先々の計算をする「未来の植民地化 」の一例である。
身体も振舞いも所与(あって当たり前)ではなく、ライフスタイルの中で選んで自分で作らないといけない。つまり、自己責任。
第四章 宿命・リスク・安心
ハイ・モダニティの時代にはチャンスとリスクの環境で生きている。伝統的時代にあった、宿命論(人生は神に任せるしかない、予め決まっている)は影をひそめ、従来のリスクは低くなっている。現代では、リスクは低くなったが、常にリスクを考えて行動する時代になっている。転職や結婚などでは、自然的態度を作ることができた保護皮膜が一時的にはがされ、リスクを意識する。人生の一大事を運命決定的と呼ぶ。運命決定的な時には個人は、習慣を変えることもある(私はフリーランスになって、健康に気を配るようになった。雇用されている時にはあった休業手当金を受けられなくなったので、病気になれないと考えたから)。
抽象システムが進むと、従来のリスクは低くなるが(例えば安全な水、輸血、冷蔵庫、シートベルトといった技術専門システムによって)、構造化されたリスクが新たに生じる。例えば株式市場や原子力発電といったものである。新たなリスクに対しては専門家がフォルトツリーを使うなどをして対処するが、リスクは起きてみないと分からない。
専門家も個人もいつもリスクを考える(飛行機に乗って安全なのか? バターとマーガリン、どちらが健康に良いか?)。
身体は常にリスクにさらされる。基本的信頼感は、正常な外観と、日常のルーティーンがあってはじめて得られるもので、これには非常な努力が必要(子供は何も知らず道路に飛び出すのを考えると分かる)。ゴッフマンの環境世界の考えによると、人は移り変わる環境世界の中でリスクを常に警戒する意識の中で生きている。保護皮膜を環境世界に覆うことで、世界を維持している。
現代では、個人が自己アイデンティティを作ろうとすれば、未来の計画を練ることになる。リスクを考えるというのは「未来の植民地化」を意味する(保険に入る。産む子供の人数を調整する)。未来の植民地化にあたって、時間と空間の分離が、リスクへの不安を軽減するかもしれない(例えば、喫煙のリスクを見誤る)。
こういった未来の植民地化を進める文化を「リスク文化」と呼ぶが、それへの反発もある。以前の宿命論への回帰なども生じる。
モダニティを構成する抽象システム(専門化と象徴的通標)は相対的安全を作る。例えば、貨幣は食料の安定供給に、自然の社会化は災害リスク低減に寄与する。しかし対価として、道徳的報酬は無くなり、個人に対処できない新たなリスクが生じる。そして抽象システムは、個人を脱習熟化し(レジが自動化されて、レジ打ちの技術がつかえなくなる)、それに対応するようにエンパワーメント(プログラミングを習得するなど)が起きる。
第五章 経験の隔離
モダニティでは、人類をコントロールし、自然が内的準拠システムで動き、社会も内的準拠で動く(つまり、伝統に左右されない)、そしてそれは道徳性の消失に繋がる(例、少子化は道徳ではなく、人口問題になる)。内的に準拠する社会は、自己も内的準拠的に動かし、再帰的プログラムのきっかけとなる。
その特徴は
①自己は世代のライフサイクルから離れた別個の時間を経験する。(私があなたくらいの頃にはねえ……が通用しない)
②人生は場所に縛られなくなる。どこへでも行けて、暮らすことができる。
③既存の絆に関する外部から解放される。個人が親密性を作る。(地縁、血縁が薄れる)
④儀礼がなくなる。(就職などの人生の転機が、自己アイデンティティの危機となる=運命決定的)
社会にコントロールの帰結が、「経験の隔離」となる。
要因:社会による管理能力の拡張、公私の再秩序化、罪悪感より羞恥が重要になる。
経験の隔離の代表例
①狂気 昔は精神疾患は尊敬されていた。今は精神病院へ
②犯罪 死刑は見世物だったが、今ではひっそりと刑を執行(ニュースでしか執行が分からない)
③病気と死 病人は昔は家で家族や縁者に囲まれていたが、今では集中治療室や介護施設
④セクシュアリティ 住宅事情で、以前は性行為を家族に隠すことが困難だったが、今では、寝室の存在がある。
⑤自然 田園や緑地帯、街路樹と、人工的に手入れされた自然ばかり
経験の隔離の結果
人間の道徳的、実存的構成要素を抑圧することで、生活はコントロールされ予測可能になる。(つまり、安全になる)しかし、存在論的安心感は弱くなり、空虚さが人生を支配する。
さらに、ナルシシズムが発生しやすくなり、「私にとって、これが何を意味するか」という考えだけで自己は行動するようになる。
第六章 自己の苦難
自己は、絶望や落ち着きのなさ、不安定感がまとわりつき、知識は全て仮説なので、根源的懐疑にさらされている(コーヒーは体にいいの? 悪いの?)
モダニティに生きることはジャガーノート(暴れ馬みたいなもの)に乗っているようなもの。遠くの危機が身近に感じられ、不確実な知識が自己アイデンティティを脅かす。
心理的レベルでは、経験の隔離、抽象システムの信頼性、親密な関係の変容による純粋な関係性は結びついている。これらの見返りは少ない。信頼は無知をカッコに入れるだけ(つまり、見えないふりをしている)、純粋な関係は真実性に頼らざるを得ない。
我々は世界のうちに生きていて、そこでは遠くの事件、媒介された経験、場所の変容が常に襲いかかっている。道徳の代わりに統制が自己を支配し、社会も自己も内的準拠性によって動くが、いくつかのジレンマが生じる。
ジレンマの例
①再帰的プロジェクトにおいては隔離された経験を統合する方向に向かうが、他方で多様な方向に向かう力学もある。
②モダニティは個人に機会を与えるが、無力さの元にもなる(自動トラックが仕事を奪う、核のリスクの前に人は無力)
③(伝統的な)権威がなくなったので、自己の再帰プロジェクトはコミットメントと不確実性の中で舵取りをする必要がある。(何が正解かわからない)
④自己の物語は、自己実現が商品化されるなかで、作らないといけない。
モダニティは人を抑圧するが、回帰の(つまり、モダニティに逆らう)動きもある。
①運命決定的な時(人生の転機)にはルーティンが脅かされる(出産や死)
②脱収容(刑務所が開放的なものになる。自由度の高い刑務所、精神疾患の地域でのケア)
③情欲の経験(セクシュアリティが生殖から切り離されて、道徳への結びつきを強める)
④宗教への関心
⑤社会運動
このような回帰が、政治運動へと向かう(ライフ・ポリティックス)
第七章 ライフ・ポリティックス
政治には二種類ある
①解放のポリティックス 正義、平等、参加に関するもの。(例、アパルトヘイトの廃止)
②ライフ・ポリティックス 人生の決定の政治
自己アイデンティティは再帰的に作られる。社会の変化で形成され、変更される。再帰の例として、以前身体は所与だったのが、専有される。それによって中絶の問題や、人工授精といった生殖の問題が出てくる。
ライフ・ポリティックスはモダニティによる抑圧からの回帰の過程で生じ、議題を与えるものである。フェミニズムの問題、格差の問題、生殖の問題、自己アイデンティティの問題が、政治的遡上にあがる。
(三)思索してみて
●モダニティの再帰性と個人の自己アイデンティティへの影響について
これを卑近な例で考えると、スポーツのルールが科学的・文化的見地から変更されて、選手がそれに対応しなければならないことにちょっと似ているかなと思った。例えば、スキーのジャンプ、最初は遠くに飛ぶことを楽しんでいただけなのに、スキーの板の長さやウェアの制限が次々加わり、それに対応し続けているうちに、ジャンプの醍醐味が見えなくなる選手が出てくるのではと思う。野球も、申告敬遠やコリージョンルールで、計算可能性や安全性は高まったが、申告球を打つ可能性はなくなり、キャッチャーの存在意義のひとつ、ブロックが無くなる。大きなものの再帰性は小さなものを安全にはするが、つまらなくする。このつまらなさの帰結が、無意味感に近いのかなと思う。確かに今の世の中はつまらない。例えば、創作ひとつするにも表現に色々制限があり過ぎる。これもモダニティの影響かなと思う。医療はエビデンスが常に更改され、医師の技量・自己裁量の入る余地は減っている。医師の均質化、技量の保障には繋がるが、将来は医師の訓練を積まなくてもよくなるかもしれない。そうなると、医師の存在意義はどうなるのか。ちょっと、不安でもある。
●モダニティの影響例
スマホやIT技術は自己をSNSのアテンションに向かわせる。アテンションが、象徴的通標のひとつとなり、社会はアテンションエコノミーを形成する。スマホがなかったころは思索にふけることができたものが、思索は浅くなり、即決の反応のみが重要視されるようになる。さらに、脱埋め込みシステムの更新は、通貨取引(ペイペイ)、個人情報の履歴、会議の方法といったものにも影響を及ぼし、個人の脱習熟化は益々加速している。
●媒介された経験について
メディアの発達によって、人生は直接経験していないのに、直接経験したように感じる人が多いように思う。メディアで仕入れた知識を自信満々に語る人間が多数いる。しかし、メディアを通じての「媒介された経験」は、どうしても実感が弱いのではないか。勿論、媒介されるからこそ、人はリスクを取ることなく、遠くの出来事を経験できる。最近の地震のニュースでよく言われるのが、「震災直後は個人で被災地に行くことは遠慮して欲しい」「支援はお金で」といったスローガンや被災自治体や国からの要請である。今から書くことは、こういったスローガンの是非や善悪を問うものではない。
こういった要請は、過去の災害経験から再帰的に生まれたものであるので、少なくとも現時点の見地からは正しいことだと思われる(モダニティにおいてはすべてが仮設なので、災害学が更新されると将来代わるかもしれないという意味で)。これも、モダニティによる、「経験の隔離」の一種だと思う。もう一度繰り返すが、内容の是非を論じるというのではない。現実、モダニティの中で生きる我々にとってはある答えが最適解で決まってしまうものがあり、この災害時における、被災地以外の人間のあるべき姿勢もそうだと思われる。
話を進めると、この経験が隔離され、直接経験ができないと、被災地の支援の効率性、二次災害のリスクの低減といった大きなメリットがある一方、現地に赴かず、メディアの「媒介された経験」しか味わえなかった人々は、何度震災を間接的に経験しても、「他人事」としかとらえられないだろう。私の仕事先の一つである都内の会社での例を挙げておく。この会社では、東京都から水食糧の備蓄を三日分作るよう義務付けられている会社である。にもかかわらず、備蓄は十数年間、一日分程度しか作っていない。その間に、地震、水害といった自然災害を何度もニュースで目にしているにもかかわらずである。これは、備蓄の重要性を媒介された経験から学ぶことの限界を示している。そしてその影響は、道徳性を失わせることにも繋がっている。この会社が道徳性がないというのではない。モダニティでは、人々はどうしても道徳から離れざるを得なくなるのだ。
皆さんは、人の死を間近で経験しているだろうか? 病人が苦しむ姿を目にしているだろうか? では、手の付けられていない自然に触れているだろうか? 重大犯罪者と関わったことがあるだろうか? 人の性行為を間近で見たことがあるだろうか? これらはすべて、「経験の隔離」の代表例として書に示されたものである。おそらく、メディアで見聞きする、統計上の数字を見て驚く程度には経験してないだろう。この経験の少なさは、個人リスクの低減に役立っている。これは何よりも大きなメリットである。しかし、その経験の少なさが、道徳感情の喪失に繋がっている面があるのだ。
それにしても、「手助けには来ないで義援金だけ」というのは、モダニティのいわゆる「象徴的通標」がいかに威力を持っているかを物語っている。災害時に限らず、街には国境なき医師団やユニセフといった団体が、募金活動をしているが、人の手を求めることはない。「あなた、ぜひうちで働いて」と言われたことがあるだろうか? どこかでひっそりと求人しているのかもしれないが、象徴的通標ほどには必要としていないのである。勿論、こういった団体への批判ではなく、モダニティのシステムがこうなっていることが街中に垣間見ることができると言った話である。人は、経験から隔離され、抽象システムが人の上にのしかかっているという証左である。
(さいごに)
私の理解力を超える書物だったので、まとめが上手く行きませんでしたが、この書物を部分的にでも味わえると、生きづらさの正体が分かり、何も知らないで過ごすよりは、「自分は大変な時代に生きているんだ」という心構えができるような気はします。だから、「この世界はなんとなく嫌だな」と思う方は、一度読んでみることをお勧めします。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。