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死なない男。
2025年1月29日(水曜)
闘病中だった森永卓郎さんが亡くなった。
私にとって彼は非常に数少ない尊敬できる人であり、ひとつの憧れでもあった。
来歴等はWikipediaが詳しいので参照を願いたい。
経歴としてはエリートそのもので、中学生まではアメリカやウィーン(家族の仕事の関係)で暮らしており、幼少期から世界観が我々とは少し違ったのかも知れない。
東大経済学部を卒業後は日本専売公社(JT)や経済企画庁、シンクタンク、大学の講師やコメンテーターなど幅広く活躍されている。
ただこう言った経歴の人は他にも山ほどいる。
それを尊敬してしまうとキリがないわけで。
私が彼に憧れに似た感情を抱いたのは、彼の突き抜けた生き方そのものにである。
彼には上記のようなエリートそのものである顔と、それに比例するような「やりたいことを貫く精神」がある。
食べるのが好きだったようで闘病前は日々5000Kcalほどの食事をしていたり、ミニカーなどの趣味に大金を注ぎ込み博物館まで作ってしまうという一種狂気に似たのめり込み方をする面がある。
普通はどこかでブレーキが掛かるものだ。
ただ時折、そう言ったものが機能せずに突き抜けた行動をとる人たちがいる。
私はそういう人たちに強く憧れ、時には崇拝してしまうのだ。
生きていれば誰しもが「周りにどう思われているか」という判断基準を用いることがある。
身なりだったり、協調性だったり、家族関係だったり、やはり生きている以上誰かと関わっていることで日々が成り立つのだから当然と言えば当然だ。
だが、一部の人は己の(ある意味欲望ではあるのだが)信念を何よりも大切にし行動の規範とする人たちがいる。
人に好かれようとも、嫌われようとも、それらが一切行動を抑制することがない生き方。
自分にとって森永卓郎さんはまさにそんな憧れの男だ。
岡田斗司夫さんや高橋洋一さんも同じく、私にとって強い憧れである。
(皆さん東京大学卒で、やっぱり東大というのはすごい所なのだと常々感じている)
その森永さんが2023年の暮れに、ステージ4の膵臓がんであることを発表した。
医療界隈で働いてる身として、それはあまりに絶望的な発表だった。
ステージのレベルよりも、膵臓という部位の癌がいかに存命率が低いかを知っていたからだ。
しかし。
そこからの森永さんは私の予想を簡単に裏切り、とんでもなく精力的に活動をされた。
「死ぬことが決まってるからこそ、やらなければならないことがある」
と言わんばかりに。
正直な感想を言うと「余命宣告されてなければ、絶対に書けない内容」の書籍や発言を矢継ぎ早に発表されていった。
普通であれば「そんなの陰謀論だろ」と笑われて終わりであろう闇を、敢然と陽の下へ晒し始めたのだ。
恐らくご病気でなければ発売など絶対されなかったはずであり、事実「ザイム真理教」は数十社の出版社から断られたようだ。
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病を抱えて、数十社に断られてなお、なぜか今世の中に広く「ザイム真理教」は発売されているのは何故か。
彼が貫いたからに他ならない。
死ぬまでに持てる情報を世に残すという強い信念を貫いたのだ。じゃなければ、あの本は絶対に世に出せるものではない。
そして、それは彼以外の多くの人の信念とシナジーを起こし、大きなうねりとなって日本を変える力となった。
選挙では自民党が過半数を割り、財務省前では日々デモが起こっている。
もちろん彼だけの力ではないが、少なくとも彼が起こした波紋が今の流れの大きな礎の一つになった事は間違いがない。
1月29日、彼の肉体はその活動を停止したが、彼が決して手放さなかった「信念」は今日も明日も、これからも多くの人の生き方や行動を強く後押ししていく。
つまり彼の信念は数えきれない人の血肉になり、生き方になり、繋がれていくのだ。
死ぬと言う事は「忘れられてしまう事」という考え方がある。
つまり彼は今日「不死の男」になったのだと私は思う。