破滅へ追い込まれる士族。旧自由党員が引き起こした静岡事件 大日本帝国と史論家山路愛山の時代10
「絶望は、人を過激にする。とくに、生まじめで思いつめる性質の人ほど、容易に過激化しやすい」
塩野七生『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前 上巻』より
固有の方言を恥じるのは悪徳である
明治10年代。時代の変化は、耳や目から感じることができた。愛山が軽蔑した人種は、昔の公家が「坂東語」を習って武士尊崇の時代に媚びたように、「聞き悪い」九州語を学び静岡県人たることを隠そうとした者である。
彼は人生で最もにくむべきは固有の方言を恥じることにあるという。しかも自分たちの使っている江戸言葉は「天下の粋」ではないか。調子は軽快で、屈折が自由で、会話の言葉としては「日本語の絶頂」である。それを放棄し、何を苦しんでまで薩摩の言葉を学ぼうとするのであろう。聴覚が鋭敏な彼は、多情多感である。
〈花〉は〈泥〉に変わる。女らは娼妓へ転落
愛山が紹介する甲某の一家は、江戸にいれば子沢山で祝福も多く受けたであろうに、公債証書も使い切った落魄の人々である。彼らにとって多くの子供は貧窮の種だ。そしてその妻は、「人生の辛酸」を知らず、「小判は水の如くに湧く」という江戸の感覚でこちらに来てしまった。苦悩を知らぬものはたやすく、時代とともに変貌するものだ。
彼女は、すぐに怒り、笑い、大声を挙げて子供を罵り、買い食いし借金をする母となる。感情に支配されている。その女の娘は、花のような容色であったが、東京に行き離婚となり、静岡の大官である鹿児島県人の「婢(下女)」となった。そして品性を変え、実家に帰るや家人を睥睨し、母を使役するほどの傲慢な女になってしまった。愛山は近所に住んでいたので、彼女が母親を叱咤する声をよく聞いた。愛山は、淡い恋心を抱いたかもしれないその女を、自分の妹ならば「鉄拳」を「頭に加へん」と思ったほどであった。
女はやがてデンボウ肌(いなせのことか)の淫婦となり、娼妓となる。「花の如きものは泥の如く」なる時代であった。もし彼女に、賢い父兄がいたならば、花のような嫁御寮となったであろうにと、愛山は涙を流したという。彼はこの地でいともたやすく時代に流される人の弱さを感じずにはいられなかった。それが何よりも無念であった。
悪い時代の心温まる人たち
「悪貨は良貨を駆逐する」時代だからこそ、逆に優れた人物の価値がよく見える。愛山が史論家として洞察力に長けていたのは、この苦難の時期が幸いしたというほかない。彼はそんな時代に「柔らかなる情(ハート)」を持った人物について振り返っている。
愛山がある人物に『史記』を借りようとしたら「不注意にして書を損ずる者には貸し与へ難し」と言われてしまった。そんな時に、その場にいた乙某は、愛山の無念そうな顔を見て思わず涙を浮かべた。乙某は愛山をひそかに誘って、『史記』はないが『漢書』を読むならば自分の家にとりに来るように言った。愛山は彼の優しさにすっかり感動した。
図書館もあり情報がタダ同然で手に入る現代からは、たかが本一冊と考えそうだが、当時の人にとって知識の価値は大きい。古典を学ぶことは、歴史や知恵を得ることだけではなく人格の陶冶になるとの意識があった。愛山のような知識欲旺盛の人間からすれば、読みたい本を読めないということは、自分の世界が何年も遅れてしまうというような衝撃があった。その思いが乙某にも痛いほど伝わったのだろう。結果、ある人もまた愛山に『史記』を貸してくれたという。
静岡事件が起きる
そして、明治一九(一八八六)年、愛山二一歳の時、徳川遺臣を追いやった静岡の地で悲劇は起きる。政府転覆を図ろうとした静岡事件である。愛山が青年期に発表した『命耶罪耶』はこの誤解を解く狙いがあった。彼は、この事件の鈴木音高や湊省太郎ら強盗罪を犯した人々に敬語を惜しまない。彼らは武士の子である。新聞報道であるように、「放蕩の為めに強盗」をしたなんて常識ある者には信じられない。彼らがどのような過程を経てその罪悪に手を染めたのか、その背景を述べないことには事件の真相はわからないというのだ「三河武士」を誇りに思う愛山は、彼らの弁護を買って出る。この時の彼の姿勢と後の史論は深く結びついている。
静岡事件は、自由党員による政府転覆計画未遂のことで、一八八〇年代は松方デフレにより農村が困窮し、静岡県内でも借金党や小作党による蜂起が続いた。自由党系の党員や有志が箱根離宮の落成式に集まる政府大官を暗殺する計画を立てた。それには資金がいる。そこで銀行や金融業者への強盗を働いたのである。暗殺計画は露見し、一〇〇人を超える人物が逮捕され、首謀者である湊省太郎らが強盗罪で刑に処せられた。これは加波山事件(明治一七)、秩父事件(同)、飯田事件(同)、名古屋事件(同)と続発した自由党系の挙兵計画の最後のものである。
愛山は静岡事件をこうした諸事件と関連させて考えている。彼らは「政治的気圧の増加」を感じていたという。多くの有志家は「節を折って官海に入れり」、「昨日の朋友は誰か図らん今朝の敵」という時代になった。中央政府の力が地方に対して圧力となってのしかかり、人間関係も官とそれ以外という具合に分断してきたというわけだ。
愛山曰く、湊省太郎は「幸福なる家庭の子に非りき」、「彼をして憤激せしめたるは時政(ママ)也。然れども彼をして犯罪に行かしめたるは家庭の破船也」。さらに湊が収監中、母と久しく別居している父に母と妹の将来を託したが、父に拒まれたことに触れている。またその妹は、女学校の生徒であったほどの読書生であったが、静岡事件以前に青年の職工と「慇懃を通じ、母と兄とを棄てて東京に奔りしことあり」という具合である。そんな湊だが、愛山の小学校時代彼は学校の教師にして俊才として周囲を圧し、「有為なる未来を有する者として全市の注目する所」であったと伝えている。暗い家庭でありながらも、彼は少しも厭世的でなかった。愛山は官吏、銀行員、政談家、風流才子のような、襤褸を身にまとった湊を見た。湊は幾度も職業を変えたが、そのたびに下級になっていったという。湊の名は敬されるより憐れまれるようになっていった。
他に愛山は、鈴木音高、藪重雄についても触れている。愛山の見るところ、それぞれ強盗を起こすような人物ではなかった。さらに愛山は、この事件では「国事探偵」なるものがいたことに触れ、有志者の間にまじっていたという。愛山は警察に勤めていたのにむしろ批判しており、「政府にしてもしその友を売るを人に強ゆるが如きあらば、余はその国民の品性を賊することはなはだしかるべきを思ふて恐懼の念に堪へず」と指弾する。愛山は、こうした圧力が彼らに暗い影を投げかけたと見ていた。
なぜ〈反逆児〉は生まれたのか?勝海舟らへの失望
反逆児を生んだ原因として彼は三つの要素を挙げている。
㈠ 彼らは革命を予想しており、梁山泊の豪傑を擬すようになっていった。
㈡ 彼らは適当なる誘導者を得なかった。
㈢ 彼らは社会の継子(仲間はずれにされている人)として社会に冷遇され心を歪めた。
特に愛山は㈡に問題が多いと見ていた。彼は「江戸城を明渡し、談笑の間に百万の生霊を救ひたる名士」(勝海舟)、「北海の野に連戦し文明的の海戦をもって天下を感歎せしめたる名士」(榎本武揚)や、山岡鉄舟ら旧幕臣の名を挙げている。そして「駿遠の野に委棄せられたる汝が同僚の子孫を顧みざりし乎」とまでいう。愛山の彼らに対する失望は深い。
大敵であった薩長人士と胸襟を開けるのに、なぜかつての仲間を忘れたかのような振舞いをするのか。問題は薩長政府にあるより、旧幕臣が静岡県人に対して同情を欠き、捨て去ったかのような態度をとったことにあるというのだ。彼はかつての「仲間」に対する旧幕臣の冷淡な態度に、静岡事件の要因を見ずにはいられなかった。