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地域で楽しく過ごすためのゼミ 23年4,5月 2/2

2023年4月24日、5月22日、地域で楽しく過ごすためのゼミが2回に分けて開かれました。

 今回の課題図書は『西洋政治思想史』(著:宇野重規 2013年 有斐閣)です。担当は大浪と渡辺です。
この文章では、実際にゼミで使用した要約文章を掲載します。
※こちらは担当者二人目の分です。もう一人の分はこちら

〈以下要約(渡辺)〉

はじめに

 本書は古代ギリシアから19世紀までの政治思想を扱う。政治思想史の有り方は、歴史を一つの理念へ向かう「物語」として描くものに近い。しかし、現代では、このような歴史観は見直されている。本書では以下3つの方針で、この課題に応える。

①「政治的人文主義」と「共和主義」の導入
政治思想史を発展史ではなく「古典」がいかに読み継がれてきたかという観点で捉える
②ヨーロッパの「地域性」
ヨーロッパを普遍的なものとせず、その地域性を重視する
③政治哲学との架橋
本来異なった手法を用いる政治思想史と政治哲学とを結びつけて論じる

第1章 古代ギリシアの政治思想

§1 古代ギリシアにおける政治と哲学

 古代ギリシアは、それ以前の時代には存在しなかった政治体制─デモクラシーを発明した。そこでは王も軍人も存在せず、全市民が政治的な意思決定に参加し、戦では武器を取った。個人のために国家が存在するという近代的発想と異なり、ギリシアでは、市民はポリスのために存在すると考えられていた。ギリシア人にとって意味のある人生とは、公の利益に貢献する事であった。ギリシアのもう一つの重要な発明である哲学は、デモクラシーの政治の場において、市民が活躍するために必要な幅広い知を、対価をもって提供することで発展を遂げた。

§2 プラトン

 ソフィストと呼ばれる知的革新者の登場と、ポリス間の反目などの社会的背景から、ギリシア人の価値観は、社会的名声よりも、信念に従う等の自己の内面を重視するものとなった。プラトンは、このような価値観を実現させるため、ポリス改革に乗り出した。市民の説得に必要な弁論術を検討し、理想の国家論を展開した。彼は、国家は「哲人王」(哲学者or哲学を身に着けた支配者)などの理知的な人が支配すべきであると考えた。そして、支配者が従う原理としてイデア(=心の目でしか見ることのできないものごとの真の姿)論を展開した。

§3 アリストテレス

 プラトンの弟子アリストテレスは、イデア論と異なり、本質は現実に内在すると考えた。彼は、学問を理論学、実践学、制作学に分類した。これは彼が、善が単一でないため常に争いがあり、その状況判断のために思慮する経験=実践を重要視した事を意味する。彼は、人間の本質実現のために、ポリスとそこでの働きかけを必要視し、それを政治術と考えた。彼はポリスの政体を六つに分類したが、これにより得られた知見は、後の政治学にも引き継がれる。彼の政体論は、実践を重視する点で伝統的なポリスに近く、それを哲学と架橋したものである。

第2章 ローマの政治思想

§1 ヘレニズムとローマ

 マケドニア台頭により、ギリシア人の東方移住が進み、ギリシアの思想はオリエント文化と融合し、キュニコス学派、エピクロス学派、ストア派などの非政治的哲学へと姿を変える。一方ローマは、ギリシアよりも具体的・実践的に政治制度を考察した。ローマ共和政の特徴は、貴族や平民といった多様性と対立を制度に組み込んだことにある。これは混合政体論として確立された。また、市民の政治参加を重視したために閉鎖的だったギリシアに比べ、異邦民にも市民権を与えるほどローマが開放的だったことが、ローマの大帝国化の理由と考えられる。

§2 帝政ローマの政治思想

 相次ぐ征服戦争による市民の没落と、領土拡大による市民の増大により、共和政は機能しなくなり、帝政への移行を招いた。キケロは、ローマの政治的伝統とストア派の思想を結び付け、共和政を再建しようとしたが失敗に終わる。タキトゥスによれば、ローマ人は政治的自由よりも平和を望み、皇帝への隷従に甘んじるようになったのである。セネカは、人間性を実現する場所とされた国家を、堕落した人間を抑えるための産物と捉えた。それほど現実の政治の価値は低落していた。人々は現実の外に救済を求め、結果キリスト教拡大の土壌を作った。

§3 キリスト教の誕生

 キリスト教は、ローマ元首政と同時期に誕生した。キリスト教の母胎ユダヤ教は律法の厳格な遵守を重視したが、キリスト教は罪を悔い改め、神の赦しを求める事を重視したため、律法を守れない庶民に広く受容された。イエスの信徒パウロは、これに原罪の思想─救済は自力ではなく神の愛を受け入れる事でのみ至る─を加えることで、キリスト教を世界宗教へと変えた。この拡大は、世俗権力との緊張を生み出したが、ここで重要なのは、現世の道徳や社会的紐帯を信仰の見地から再検討する、政治と非政治を対照する思考法が生まれた事である。

§4 アウグスティヌス

 アウグスティヌスは、教会と世俗の関係において、政治思想的に決定的な役割を果たした。彼は国家を、堕落した人間への「罰と罪の矯正」の存在と考えた。これは、これまでの国家像と異なるものである。また、神の被造物である世界に、罪や悪徳が存在する理由に関して、古典的回答を行ったのも彼である。彼は全ての問題の原因は、人間の自由意志にあると主張した。自由は人間が神に与えられた最も本質的な条件であり、自由を通じて人間は善に到達しなければならない。このような自由論と目的論の結合は、後世に多大な影響を与える。

第3章 中世ヨーロッパの政治思想

§1 ヨーロッパ世界の成立

 ローマ帝国滅亡後、カロリング朝は、ローマのようなキリスト教信仰と文明の統一を目指した。ここでなされた文化的活動には、後のヨーロッパ世界の特徴が表れている。その後、様々な国家が発生したが、宗教的には多様な民族が統合され、国家とキリスト教共同体が重なったヨーロッパの自己意識が確立された。この社会は、封建制─国王は臣下に服従を条件に土地を与える─によって成り立っていた。キリスト教は非政治的な宗教だったが、社会全体に基盤を提供するようになった結果、世俗と聖職者の間には緊張関係が発生した。

§2 12世紀ルネサンスとスコラ哲学

 ヨーロッパ社会は、その経済発展とアラビア世界の文明との接触から「12世紀ルネサンス」を迎え、古典古代の学術と文化の一部を受け継いだ。その代表格がシャルトル学派で、自然学と神学は統合されるべきものと考えた。13世紀には、スコラ哲学─9世紀以降のキリスト教哲学─が大きく発展し、神学と哲学の関係が問題となった。トマス・アクィナスは、神学の中に哲学を統合しようとした。彼の政治社会観はアリストテレスにならっているが、信仰は教会の管轄、法律は君主の管轄と考え、政治に一定の自立性を認める点に特徴がある。

§3 不変論争と中世世界の解体

 貨幣経済の発展により、権力の財政的基礎が再編された。結果王権が伸長し、キリスト教の普遍性が失われた。商業ギルドなどの自治的な諸団体が発展と経済圏の形成により、身分制議会が発展した。代表者が各団体から全権を委任されるという点で元来の封建社会とは異なる。この時期には、世俗の秩序と教会の秩序を完全に切り離す考え方が登場した。ダンテは、唯一最高の普遍的な政治権威の必要性を説いており、マルシリウスは政治社会が人間の自然に基づくものであり、国家は宗教から独立した自己完結的な共同体であるべきと考えた。

第4章 ルネサンスと宗教改革

§1 マキアヴェリ

 11世紀の創設以降、イタリア諸大学では古典古代の文献研究が発展した。都市国家内部の政治的混乱も相まって、公共の利益と自治と独立を重視する共和主義が誕生する。15世紀末フィレンツェで、野心と欲望に突き動かされる人間の栄枯盛衰を目撃したマキアヴェリは、いかなる人間性にも対応しうる政治のしくみを構想しようとした。その特徴は、恐怖による支配である。また、ローマ共和政の研究から、彼は君主制よりも共和政を支持するとともに、自由よりも軍事的拡大能力も重視した。彼は古典古代の政治学を後に伝える重要な役割を果たした。

§2 宗教改革

 宗教改革がそれまでの教会の歴史の中で決定的に異なるのは、教会の一体性が決定的に失われたことである。ルターは、贖宥状などの、聖職者の聖書にない行為を疑問視し、全てを聖書から出発すべきと考えた。また、彼は権力機構としての教会を批判し、世俗の事柄は世俗の権力を委ねるべきと考えた。カルヴァンは信仰についてはルターと多くを共有するが、信徒の生活を秩序付けるため、教会独自の制裁権を認めた。宗教改革の結果、ヨーロッパは、カトリック、ルター派、カルヴァン派、英国協会の4宗派に分裂し、宗派間での弾圧が始まった。

§3 宗教内乱期の政治思想

 特定宗派と結んだ政治権力による他宗派への迫害が問題となった。結果、モナルコマキ(王殺し)─王が人民の同意しない権利を行使する場合、人々はそれに抵抗出来る─という立憲主義的な議論が登場した。フランスでは、ポリティーク派による、王権による政治的統一と各宗派の存続を目指す政策が実現し、秩序が回復した。この派の理論家ジャン・ボダンは「国家の絶対にして永続的な権力」=主権の概念を提示し、中世以来の法の支配とは異なる、主権者があらゆる法を自由に改廃できるという新たな国家像を提示した。

第5章 17世紀のイングランドの政治思想

§1 イングランド内乱

 イングランドでは王と議会、英国教会とプロテスタントが対立し、二度の内乱を経て議会派の独立派が勝利した。そこで議会派の軍の一般兵士を中心に、レヴェラーズという政治勢力が台頭した。彼らは、人間は生まれながらに基本的な権利を持つと主張した。その後、王政に戻ったが、当時の王の秘書ミルトンは精神的な領域の自由を尊重し、国王や貴族のない自由な共和国を打ち立てるべきと考えた。内乱を通じ繰り返し論じられたのが「自由な国家」で、そこでは国家の構成員である市民全体の意志により政治的決定がなされる事が重視された。

§2 ホッブズ

 ホッブズは、人間は自らの生命を維持する権利=自然権を持つと考えた。人間の自然状態は戦争状態となるが、人間は不断の戦争にたえられないため、規則により自然権を相互に制限すること=自然法が必要になると考えた。そして法に実効性を与えるために、自らの権力と強さを共通権力に委ね、その判断に従う契約を結ぶことを考えた。ホッブズは、人が勝手に判断することを問題視したが、外面的行動において法を遵守すれば、思想的な自由を許していた。これは宗教上の対立による内乱と戦ったホッブズの一つの政治的結論であった。

§3 ハリントン

 ハリントンもまた、内乱克服のため新たな政治学の構築を目指した。彼は主権確保に軍が重要と考えた。また、土地所有の在り方が統治構造を決定すると考え、人民が3/4以上の土地を所有する当時のイングランドにおいて、市民たちが自ら武器を担う共和政が必至と考えた。そして、土地所有に立脚した「共通の利益」の支配が、内乱克服の鍵と考えた。彼は、古代共和政ローマの混合政体論を範とし、私的利益を共通利益へと変換する政治制度を提案した。王政復古後も、土地所有を重要視する点で彼の議論を継承するネオ・ハリントニアンが登場した。

§4 ロック

 イングランド王権と議会の対立再燃の際、ロックは従来の国王と臣民の権利を読み替え、権力分立論を展開し個人の権利を守ろうとした。彼の議論の特徴は、自然状態は個人が他者を害さない平和状態と考えた点にある。彼は自然法を神に与えられた物、つまり社会の基本倫理が宗教により保たれていると考えた。ゆえに、政府が人民の信託に違反し解体された場合も、社会は解体せず、新政府を作りなおす事が出来ると主張した。政府と社会を区別し両者を対抗的に捉えたのである。彼も政治と宗教を分離したが、宗教が重要な役割を果たしている。

第6章 18世紀の政治思想

§1 モンテスキュー

 フランスで生まれたモンテスキューは、王権の専制化を危惧し、その対抗イメージを、国王・貴族院・庶民院からなるイングランド国制に見出した。彼は、それまでの身分制秩序からなる王政のあり方を利用し、権力分立体制に転換しようとした。また、彼は商業が発達した社会では、名誉欲が社会の調和に適当と考えた。商業の発達は社会秩序を安定させ、また財が必要な権力も商業の発展を重視するため、結果、平和が維持されると考えた。彼の議論は、社会経済構造の変化と政治を結び付ける点で、それまでの政治学と大きく異なる。

§2 啓蒙思想

 18世紀、サロン、アカデミー、カフェと呼ばれる社交の場と、新聞と雑誌などのメディアが登場し、人と人、人と情報が出会う知のネットワークがヨーロッパに形成された。この知の拠点を象徴するのが「啓蒙」である。イマヌエル・カントによれば、啓蒙とは、優れた者がより劣る者を教え導く事ではなく、人が自身の知性を、勇気をもって使用する事である。この時期、哲学は伝統的権威に対し果敢な挑戦を行うようになったが、政治的に革命的であったわけではない。しかし一部では革命論まで射程に入れるようになり、後世に受け継がれていく。

§3 スコットランド啓蒙

 1707年、イングランドとスコットランドが合邦、グレートブリテン王国が成立した。スコットランドでは多くの思想家が生まれ、後にスコットランド啓蒙と呼ばれた。英国では、商業活動の結果起こる私的利益と公共精神の二者択一が問題となっていたが、スコットランド啓蒙はこの対立を乗り越えようとした。対立の結節点にあたるのがヒュームである。彼は、この対立を克服不能と考え、緊張関係を創造的に生かそうとした。彼は宗教的狂信を嫌い、商業や学問の発達を肯定した。利益による対立や競争は、自由を守るうえでむしろ有益と考えた。

第7章 米仏二つの革命

§1 ルソー

 ルソーは、ヒュームと同時代人であるが、文明社会に対して批判的であり、過激な政治批判へとつながる。彼によれば、国家とは金持ちが作った、不平等を維持する発明であった。彼はあらためて政治社会を構想すべく『社会契約論』を執筆した。これによれば、各人が等しく権利を全て共同体に譲渡すれば、誰もが平等であり、その契約による共同体は集団としての人民が主権者であり、それに従うことは自分が決めた規範に従う事に等しい。彼のモデルは人民主権の最も明確な像を提示したが、多くの問いを残しており、後に多くの議論を残した。

§2 アメリカ独立と『ザ・フェデラリスト』

 1776年アメリカ合衆国は独立を宣言した。トマス・ペインは当時独立に逡巡していた植民地人を後押しした。彼は政府を必要悪と考え、本国政府から独立し、植民地人の自己統治が自然と秩序をもたらすと考えた。独立宣言の起草者ジェファソンもまた、政府への不信感と人民の自治能力を信頼していた。その後、独立後のアメリカには一体性がなかったため、新たな憲法が模索された。そして説得のため『ザ・フェデラリスト』が執筆された。この書は、モンテスキューの権力分立論を、身分制ではない純粋な機構上の三権分立を目指した。

§3 フランス革命とバーク

 アメリカ独立後まもなくフランス革命が発生する。そこで生まれた共和国は、伝統的な王権を否定し、ルソーの思想に国家の存在根拠を求めた。エドマンド・バークは、それに対抗し保守主義の礎を築いた。彼はイギリス国制の構成要素を、君主制、貴族政、民主制に求め、特に議会の独立性と政党政治を擁護した。彼は、社会は歴史の中で形成され、国制は慣習を通じて確立するのであり、社会契約では不可能と考えた。これは、フランス革命への反動ではなく、改めて歴史の連続性を強調し、社会を支えるものを自覚的に捉えなおしたものである。

第8章 19世紀の政治思想

§1 ヘーゲル

 ドイツの歴史家ヘーゲルは、歴史は弁証法的に─矛盾する物事がより高いレベルで普遍性を実現し─発展すると考えた。彼にとって世界史とは、民族の興亡の繰り返しの中で、自由が実現する過程なのである。彼の国家観の特徴は、欲望と理性が両立すると考えた点、そして欲望により形成される市民社会を国家の起点にした点である。範としたのは立憲君主制で、市民社会の代表と貴族に立法権を渡し、それを君主の君主権と行政の執行権によりコントロールしようと考えた。そして、この三権は相互に抑制するのではなく、有機的に連帯すると考えた。

§2 トクヴィルとミル

 フランス革命を経て、民主的社会における個人の自由に着目する自由主義が登場する。トクヴィルは、民主的社会では多数者が力を持つため、価値の均質化した社会では世論が一元化し個人の自由が抑圧されると指摘した。彼はアメリカを訪問し、自治、自発的結社、宗教が自由と民主的社会の両立の道と考えた。J.S.ミルは、個人の発展と社会の進歩には自由が不可欠と論じた。そして、個人の自由の脅威となるのは、国家、そして社会の同質化圧力と指摘した。彼は、人々が政治参加し公共の事柄を学ぶことによる自己陶冶の能力の開花に期待した。

§3 社会主義とマルクス

 18世紀後半に英国で起きた産業革命は、19世紀にはヨーロッパ諸国に拡大したが、都市の貧困者の増大を招いた。結果、文明社会自体が問題視され、社会主義の諸思想が生まれた。その初期の思想の多くは具体的方法を欠いていたが、社会変革の多様なビジョンを示すものだった。その後登場したマルクスは労働に着目した。彼にとって労働は自己実現の手段だったが、単なる生命維持の手段に堕している現状を問題視し、その原因を労働の商品化に求めた。労働の商品化の原因は階級社会であり、彼はその打倒を目指し、自らの立場を共産主義と呼んだ。

結章 20世紀の政治思想

 二度の大戦には多くの国民が動員された、その引き換えに国民の政治的発言権が認められた。20世紀はデモクラシーの理念を否定する体制がなくなった世紀と言える。その結果、デモクラシーの分類法が発展した。具体的には、政治そして人間の自由の意味が問い直される事となった。そして、現代政治思想の論点をあえて以下の3つに絞り紹介する。

①権力論─社会に存在するミクロな権力のネットワーク
②正義論─多様な諸個人からなる現代社会の基本的枠組み
③帝国論─国家権力とは異なる、脱領域的なネットワーク状の権力の存在

感想と批判

・本書で用いられたフレームワークは現代社会を理解していくうえでも有用
・ヨーロッパの地域性であるキリスト教に妥当する概念が日本に存在するか
・欧米発の概念にはキリスト教的な文脈の中でしか理解できない部分が多々あるために、日本人には理解しがたい部分が多くある。その部分を理解せずに、欧米発の概念を日本に当てはめることも、欧米での議論を理解することも難しい。
・思想は現実の後追いにしかなっておらず、思想が現実社会においてどのような力を持ちうるかについては見当が必要。逆に思想が人々を型にはめてしまい、何らかの歪みが発生することも十分にある。
・善が変われば国制の適切な形も変わる。今現在我々が正しいと思っている価値もあくまで相対的存在であり、いつそれが失われてもおかしくない。現実の変化は常に起こっている以上、どこかで我々の思想が変化することを余儀なくされることはあり得る。

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