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一等賞になれるかな?

父と電話で話すのは楽しい。元気がいいのはなによりだ、と言っても「スープが冷めない距離」ではないが「スープが食べごろになる距離」くらいのところに一人で住んでいる。この間の電話は、美味しいチキンの焼き方を某国営放送で見て、やってみたら美味しかったので、その方法を伝授するとともに、大好きジャイアンツの話。

開幕してからいまいち勝てないジャイアンツの何がどうしていけないのかという分析。今年はある程度打ててるのに打線が続かず点数が取れない。悪いのは・・・。と続いていく。聞いてるとお前はそのうちデ・ニーロになるぞ。と思ってしまう。
(映画 ザ・ファンのギル・レナード役がローバート・デ・ニーロだった)

巨人軍よ永遠なれ!

父は料理が上手だ。母も上手だったけど、ある分野の料理では父の方が得意だったかもしれない。ちらし寿司とか、お煮付けとか、豆ご飯とか。なんでも美味しい。今でもときどき作ってくれて「取りにおいでよ」と言ってくれる。

小学生の頃、誕生日のパーティにいつもサングリアを作ってくれた。母が作ってくれたご馳走のテーブルの真ん中で、フルーツが浮き沈みする透明なボウルはパーティー感満載で綺麗だった。大体は「これにはこういうワインがちょうどいい」と言ってスペイン産のシグロを使っていた。お気づきかと思うが、私は小学生。父にそんなことは関係ない。

私もギャラリーの企画展の初日やクリスマスやハロウィンのパーティには、欠かさずサングリアを作ってテーブルに乗せていた。そのうちスタッフがサングリア作りのプロになって、いつも一番になくなっていくようになった。他の飲み物もたんまりあるというのに。
こうして父の「パーティ=サングリア」は受け継がれていくのである。

もうだいぶ食べちゃってるけど。

若い時は喧嘩も多かった。母は、私と父は似てると言っていた。実家を出た後顔を合わせると、1日目はものすごく仲良くて、2日目はまあまあで、3日目には喧嘩して「じゃあなっ」と別れる。
お互い、ウヤムヤにすることを良しとしないし、好き嫌いもはっきりしてるし、照れ臭くて言いたくはないが何より相手を大切に思っているんだと思う。

よくある話だが、「私はお母さんみたいな人になって、お父さんみたいな人と結婚する」と誰憚ることなく言っていた。

私にとって母は人生の師で、憧れの人だった。透明で強くて柔らかくて深い。そして香水をつけているわけでもないのにくっつくといい香りがした。何があってもこの人がいれば大丈夫と思わせてくれた。

母が亡くなっても父はしっかりと生きている。どこに行くにも一緒で、もしも父より先に母が逝ったらなんて考えると、絶対無理だと思っていた。
母だって「お父さんとお母さんは、〇〇ちゃん(私)のお父さんとお母さんになる前から、恋人同士だったのよ」なんて言って、私はお留守番で2人でデートに出かけていたくらいだ。

寄り添うカモさん。

案外と受け入れるものなんだな。と思った。私は母の香りや声を思い出すたびにいまだに泣いているというのに。こんな時お母さんがいてくれたらと、病院のベッドで泣いてしまったというのに。でもそういう時はいつも一人の時だ。
私と父は似ているらしい。母の悪戯っぽい笑顔が見えたような気がする。

家族で一緒に買い物したり食事に出かけたりするのが好きだった。その日も一日遊びまわって夕食を食べた後、父が近くの港に海を見に行こうと言い出した。もうすっかり夜なのに、母も私も「行こう!行こう!」とはしゃいで向かった。みんなご機嫌だ。

もうすっかり夜

港に着くと漁船やボートがゆらゆら揺れて、遠くの方に光が見えて、なんともいい風が吹いていた。
ふとみると、カセットテープの中身がその風に舞ってキラキラしていた。父はおもむろにそのキラキラを拾うと「〇〇、テープの端っこ持ってそっちに立って」と言った。「いいけど、なんで?」と聞くと「お母さんは子供の頃、心臓が弱くって運動会のかけっこに出たことがないんだよ。だからお父さんと〇〇でゴールテープを作って、お母さんを一等賞にしてあげよう」と。
お母さんはその日、ニコニコしながらトコトコ走って、軽くバンザイしながらテープを切って初めての一等賞になった。
私が大学2年生の頃のお話。みんな結構な大人だ。

まさにその時の港

父と母との思い出は尽きることがない。あっ父は今も章を重ね続けているが。

いい天気の週末に風に吹かれながらデスクに向かっていると、今日はこんなお話を思い出しました。とさ。

ジャイアンツよ、お願いだから勝ってくれ!父に心の平穏を!


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