良き友人のように
好奇心が招いた予期せぬ冒険
ふとした好奇心から、手を出してはいけないことに関わってしまった経験、ありませんか? 私は、それを経験しました。一歩踏み込んだことで、問題が次々と噴き出し、まるでパンドラの箱を開けてしまったように感じました。
最初に感じた気持ち
問題が飛び出してしまった以上、受け止めることしかできません。最初、問題に対して怒りが湧いてきました。しかし、それならそれでいいと、動揺する自分をを受け入れることにしました。感情に溺れず、未熟な自分を認め、受け入れることにしたんです。
少し時間をおいて見えてきたこと
1日以上経って、ふとした瞬間に、笑いが漏れました。まるで不良少年のような自分の態度を微笑ましく感じていたのだと思います。そして、その状態が悩みに転じなかったのは、しっかりと向き合ったからだと思いました。怒りはただのフラストレーションに終わるのではなく、自分を見つめるきっかけになったんです。
自分と対話する
騒ぎ出す感情と向き合うことは、それまで我慢していたことを自分に言わせてあげることだと感じます。もちろん、他人にではなく、自分一人の中で言うんです。『ヤダ、やりたくない』『聞いてないよ』『嫌い』『何もわかってくれない』『馬鹿にされたみたい』『怒らないでよ』…云々。自分の声をしっかりと聞き、その声を受け入れ、無視したり非難することなく、ただ向き合うことができました。
自分との信頼を育てる
自分の痛みを伴った声を聞いてあげること、それこそが自分との信頼関係を築くことだと思います。他人にではなく、自分に対して遠慮せず言いたいことを言わせることは、自分の感情に責任を持つことでもあります。そして、他人にぶつける必要がなくなることで、自分が自分に信頼され、悩みも作らずに済む。そんな上等な自分との向き合い方ができると感じています。
見えない痛みを感じ取る
パンドラの箱を開けてしまった時、色んな問題が飛び出してきました。しかし、それらは実はもっと深い場所にある痛みのシグナルだったことに気づきました。その痛みは、繊細で、触れることさえためらってしまうようなもので...戸惑いました。痛みは避けるべきものではなく、むしろ自分が向き合わなければならない大切な声だったのです。
自分とじっくり向き合う時間
友達との自然な関係性の深まり方を、自分自身との関係にも当てはめるといいと思います。最初は表面的な会話から始まり、相手を知り、仲良くなる。その過程で、さらに相手の深い部分を知りたくなり、必然的にその傷にも興味を持ち、聞いてあげたいと思う。そんな風に、最初はお互いに軽くても、関係が深まることで、より理解し合いたくなるんですね。それを受け止めるだけの愛情がある。大切な友人だからこそ、理解したいという温かな関心。そんなふうに自分とも向き合えたらいいんです。
優しさと忍耐で寄り添う
良い友人のように自分と向き合うこと。そこには焦りも強制もなく、ただそばにいて、静かに寄り添う優しさがある。そういう安全な関係性があるからこそ、痛みも自然と姿を見せてくれる。臆病な動物が少しずつ心を開いていくように、急いで手を伸ばすのではなく、優しく見守り続けることで、心が開かれていくんですね。自分の痛みも、同じように接していけば、少しずつ向き合えるようになるんです。
痛みを受け入れる大切さ
自分の痛みとの関係も同じです。無理に向き合おうとしたり、早く治そうとしたりするのではなく、まずはそこにある痛みの存在を認め、優しく見守る。そうすることで、痛みが少しずつ、自分に語りかけてくれるようになります。痛みを受け入れることは、自分の成長には避けられないものだと気づくことができました。
信頼に応える責任
そして、機を逃さないことです。痛みが自分を信頼して姿を見せてくれた時、それは大切な機会です。時間をかけて築いた信頼関係があってこその瞬間。その時を逃さずに、痛みが見せてくれる声に耳を傾けてあげること。それが自分自身に対する責任だと感じています。
自分への好奇心と優しさ
自分自身に好奇心を持ちながら生活するんです。そんな自分への優しくて温かな関心が、すべての始まりなのかもしれません。好奇心で触れた問題は、実はその奥にある痛みを知らせてくれたのです。それを受け入れることで、より深い自分への理解と成長につながるんだと感じています。