見出し画像

脱皮。それは無我の領域。

パジャマの脱ぎっぱなしというとあーあとなるが、脱皮というと神々しくさえ感じられるのが不思議だ。
それを毎日拾い上げるのも慣れた。
というより。それを見ないことにするのが上手になった。


元の夫はだらしなくはなかった。
脱いだものは洗濯機に入れるし、ちゃんと畳む人だった。
スーツは仕事服でもあるので特に大切にしていた。
シャツもネクタイもきちっと整然と並んでいてここはブティックかショールームか、というほど、システマティックだった。
ワイシャツのアイロンがけが下手だと言われた。もうやらなくていいからと言われてホッとした。



そして現在。
わたしは抜け殻、脱皮したあとのそれをもう拾わない。
たまに我慢できずに畳んでクローゼットの決まったところに入れておく。
床の上でも畳の上でも死んだ人がそのまま倒れたようになっているようなスウェットパンツはやはり気持ちの悪いものだ。
ある日、尋ねてみた。
どうして畳まないのかと。
すると無意識。無我の境地という答えが返ってきた。
なるほどそうなのかと思った。


料理をするのは好きだし楽しいという。
実際、たのしいなぁと歌うように言いながら、欲しかったドイツの包丁を使って悦に入っている。
しかしそのあとのキッチンはギョッとするほど荒んでいる。
どうして少しづつ洗いながら片付けながらできないのか。
と、思いながら放置されているボウルやら何やら乱暴にがしゃとがしゃと洗う。



洗濯は以前からやっているだけに上手だが、その干し方ではパンツのシルエットがハンガーの形にぽこっとなってしまうので、急いでパンツ用の吊るすハンガーに替えているが、それは黙っている。


ねえ、ほこり目に入らない?
そう言われて床を見る。
ああ、そういえば、よく見てみれば。
ちょっと怒っているような言い方だがわたしは気にしないし座ったまま動かない。
するとそんなわたしを尻目におもむろに掃除機を掛け出す。
見えないソファの下も念入りに。
それが終わると今度は落ちない汚れをクイックルワイパーで拭き出す。
わたしは何もしない。
のんびりカフェオレを飲みながら、床掃除しなくちゃなぁとのんびり思う。
そう、わたしにはわたしの、あちらにはあちらなりの家事に対する考えがある。



結局家事はできる人が出来るところをやれば良いんじゃないだろうか。
補い合うという助け合い精神。
得意な方をやっていただく。
文句を言うのではなく一旦受け入れて訂正していく。擦り合わせていく。
一方的にやらされている感が一番怖い。
それは些細なことから爆発する不発弾のようなものだ。どこにあるのかわからない地雷のようになる可能性が高い。
使えるものは何でも使うのだ。
元の夫は食洗機を軽蔑していた、それを望むわたしに主婦をサボるなと怒った。
あの時、食洗機を使って時間が生み出されたらどんなにゆとりがあっただろうか。
ふとそんなことを思ったりする。


家事のひとつひとつ文句を言いながらもやっていく日々が生活なのだろう。
まず文句を言える人がいることの幸せを忘れたくはないなあと思っているこの頃。

まねきさんがこんなことを書いています。
家事について、よその家ではどうやっているのか。
気になりますよね。
よかったら教えてくださいね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?