準備は大切、それでも…
物事は準備が大切だと言われている。
それは間違いないと思う。
何かをする時、同時に考えているようでは、
どう頑張っても間に合わない。
間に合わないというのは、思考だけの話ではない。
例えば、買っておかなきゃいけないものを買い忘れたとなったら、
その日は対処しようがない。
今日が恋人の誕生日だとしよう。
仕事終わりに会う約束をしている。
当然、恋人は誕生日プレゼントをもらうことを期待していると思う。
しかし、プレゼントを買っていない上に、仕事終わりに買いに行く余裕はない。
さあ、どうするか。
これは完全に詰んでいる状態だ。
果たしてこの後どう動けばいいのだろう。
大抵の場合、ただただ絶望するしかない。
その場を逃れるためにも、
家に忘れてきてしまったとでも言おうか。
宿題だって、プレゼントだって、弁当だって、
家に忘れてしまうものだ。もはや家が定位置と言ってもいいくらい。
そのくらいの気持ちで開き直るしかないのである。
ただ、これでめでたしめでたしとはいかない。
これはとても分かりやすく準備不足というやつである。
この後、彼はどうなったのか。
想像するだけでもいやだ。
気が向いたらこの後のことを書いていこう。
そう、これは昔の僕の話である。
まあ、今はそんなことはいい。
過ぎた話だ。
話を戻そう。
準備が大切なのは分かっている。
にもかかわらず、不足に陥るのはなぜだろうか。
これは僕にとって、長年の課題なわけだが、
少しだけ分かったこともある。
準備というものを行う場合、
必ず先に行っていかないといけないことがある。
それは、未来予測である。
未来予測とは読んで字のごとく、未来を予測することだ。
未来にどんなことが起こるのか、見えない中でも見ようとする行為が、そのまま準備する力へとつながっていく。
なんとなくイメージがあると思う。
ただ、これだけだと僕の中で消化不良なので、もう少し考えてみる。
未来の中には、「予期しやすいこと」と「予期しにくいこと」の2つがある。
「予期しやすいこと」の例でいえば、「旅行の時に何枚服が必要になるか?」などである。
1泊するのであれば、今日着る服に加えて、明日着る服も必要になる。
しかし、話はそう簡単でもない。
もしかすると、今日の午後は雨が降るかもしれないから、余計に1枚服を持っておく必要があるかもしれない。
あ、待てよ、
運動する予定もあるから、汗をかくかもしれない。
そうだとすれば、さらに1枚服を持っておかないと。
そう言い始めるとキリがなくなってくる。
これはしまった。
「予期しやすいこと」を考えていたはずなのに、気づくと「予期しにくいこと」まで考え始めてしまっていた。
(雨とか運動が、「予期しにくいこと」かどうかは一旦置いておいてほしい)
ともあれ、「予期しやすいこと」と「予期しにくいこと」は案外近い位置にある。
延長線上にいるという表現が正しいだろうか。
準備っていうものは、思っていたよりも奥が深い。
ただ見えていることに対応するためだけの行動が準備というわけではなく、
今は見えていなくても、見えるように行動することも含まれている。
そう考えると、こういうことなのではないだろうか。
先を見続けようとする意志を持つことから、準備が始まる。
いくら見続けようとしても、見えてくることはないかもしれない。
見えないことが当たり前なのかもしれない。
それでも、何かが見えてくることを信じて見続ける。
そう粘った先に見えた時、はじめてどう対処するかを考える。
この繰り返しが、準備の力を高めていくのかもしれない。
ちゃんと未来を見ておけば、
不機嫌な恋人の機嫌を直す方法を必死に調べることもなかっただろう。
どう行動するかだけではなく、行動した結果何が起こるかまで考えておけば、きっと喜んでもらえたはずだ。
と、まあ未来予測について色々言ってきたものの、
最後に楽しむべきなのは今である。
準備はあくまで予測の範疇からは抜け出せない。
考えすぎても毒にしかならない。
だって、何でも思い通りになるって思うことは、なんだか独善的な感じがするでしょ?
それに、どこかで見切って楽しまないと、今なんてあっという間に終わってしまう。
どれが予想通りとか、どれが違ったとか全部考えていたら、今が全く見えない人になってしまいそうだ。
どんなに入念に準備したって、その通りに行くことなんてないだろう?
最後はそのくらい割り切ってしまおう。
だから、面白いんじゃないか。
考えすぎないのは阿呆だが、考えすぎて今が見えていないのも阿保である。
どうせ阿呆なら、楽しんじゃった方がいい。
阿呆になって、踊っちまおう。