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いま出来ることは、「今」を必死に生きること
1年のうちふと何回か、亡くなった母親のことを考えます。享年55歳でした。病気の中には遺伝するものも多いですよね。母のことを恋しく思うと同時に、私はあとどれくらい生きられるのだろうと、考えを巡らせます。
今日がその”ふとした時”でした。元気に100歳まで生きる予定の私ですが、もし母と同じくらいの年齢で死ぬとしたら…母の年齢まであと25年”しかない”と考えた時、漠然と不安がよぎりました。
旦那さんにそれを話すと「そんな不確定なこと今考えてもしゃーなくね?」と軽く受け流されましたが、「25年なんてあっという間やん」って言うと、旦那節が炸裂。
「結局の所、15分後も、明日も、2ヶ月後も、3年後も、もちろん25年後もさ、「今」を繋いでいった先にあるものやんね。今この瞬間の「今」を次の瞬間の「今」に繋ぐことで、オレらは生きてる。それが命とか呼ばれるんやと思う。とすると、どの瞬間の「今」もできるだけ楽しいことで埋め尽くして、力いっぱい生きとけば、未来のどの部分を切り取っても、大体いつも幸せやし、充実してる未来が待ってることになるやん。
「いつか」こうなったら…とか、「あとこれだけしか時間がない」とか、言う人いるけど、その人らって、オレにとったらなんかこう、常に銀行の残高気にして生きてるように見える。もちろんそれも色んな面で大事やけど…個人的には、”あんたの人生、通帳の中で起こってへんで〜”って思ってる。時間もお金も命も、最大限使って意味を成すものやろ?大事に保管するだけで使わんかったら、それって「生きてる」って言えるか?「幸せ」と「安心」は全く別物やからな。オレはお金無いけど、幸せやで。その人らはお金あっても幸せやって思えて無いんちゃうかな。
だから、今がんばって精一杯楽しく生きといたらええねんって。ほんで、どの瞬間の「今」も、自分が幸せでいることから手抜いたらあかん。オレらは「今」生きてるんやし、どんだけがんばっても「今」しか生きられへんねんからな。」
時は金なり、と言いますが、彼の話を聞いていると、「時間」も貯金(積み重ね)みたいだなと思いました。その貯金を我慢で貯めるのか、今できることで貯めるのかで、残高は「後悔」でいっぱいになるのか「満足」でいっぱいになるかが変わりそう。
思い返せば私は今まで、自分の望む『いつか』のために我慢を貯金してきました。
・「いつか」バッタモン家族を抜け出せたら…自分の人生を生きられるのにと思い続けて、10年が経過
・「いつか」時間ができたら…ママのお見舞い行こうと思って、何もできずにママは亡くなってしまった
・「いつか」英語が話せるようになったら…生まれも育ちもカナダ人と英会話するぞと思って、留学期間中にほとんど英語が話せなかった
・「いつか」頭の中で整理できたら…思ったことを文章にしようと思って、せっかくひらめいた事も結局言葉にできなかった
英語と文章は、自分の気持ち次第でこれから何とかなります。でも学校の先生やホストファミリーがいる恵まれた環境、英語に接することが多い時期に引っ込み思案になって、その時その時の貴重な「今」に目を向けなかったのは本当に勿体なかったです。英語だけじゃなく、その時できたことを私はして来なかったんだと今になって思います。
例えばもし今「あと25年しかないから、時間を無駄にしないように生きないと」と考えてたら、実際26年後に元気だったとしても「すでにあれから25年が過ぎている…いつ死んでもおかしくないから、できるだけ安全に生きないと」と、その瞬間を楽しむこと無く死んでいきそう。
旦那さんの言葉でハッとしました。起こるか分からない25年先の『未来』のことを1日中考えるよりも、『今』、自分ができること、自分が楽しめること、幸せだと思うことに目を向けて行動する方がよっぽど有意義だと思います。
もちろん、1年後、25年後、または100歳になった時、明日の『未来』ですら、何があるか分かりません。だけど、少なくとも『今日』、自分が幸せで満足できる1日にすれば、何もせず時が流れて「あ〜あ。◯年無駄にした」っていう「後悔」は減っていくんじゃないかと思います。